(   )(   川イヤホンの子どもたちのようです(    )
4 名前: ◆CtyM0huFrQmy :2009/08/22(土) 21:18:25.49 ID:3QShVMvCP
代理感謝

三国志祭用

若干閲覧注意


6 名前: ◆CtyM0huFrQmy :2009/08/22(土) 21:20:57.98 ID:3QShVMvCP
壊れてしまった街並みを、僕は歩いている。自宅以外、全て破壊されてしまったのだ。
焦げ臭く、腐ったにおいが、周囲から湧き上がってくる。
音はしない。この近くには、僕一人しかいないのだ。

『そうだ、全部、奴らが悪いんだ』

どこからか声が聞こえてくる。甲高い、鼓膜を引き裂くような幼児の嘆き。
空の彼方から、或いは地の底から、もしかしたら、空間そのものから。

どろどろに溶けた、真っ黒な人の肉が、素足の下で潰れる。
粘着質の液体が踵にこびりつく。僕は瓦礫に足の裏をこすりつける。

『父親の性器が射精した。母親の性器が俺らを放りだした。ただそれだけだ。
 ただそれだけのことで、俺らは奴らの所有物だ。目を覚ませ、奴らのどこに尊厳がある?
 愛情の証明やらにかこつけて、欲望を発散しただけに過ぎない。その結果がこれだ。
 無能な奴ら、親の名を冠しただけの顔面性器。そして奴らは、いつか俺を殺すんだ』

(´ ω `)「僕は、そんなこと、思わない……」

呼吸困難で喘ぐような声が、口から勝手に飛び出す。

『思ってるんだよ。せいせいしたろう』

腐ったにおいが鼻から取れない。黒煙の上る破片の海、太陽ばかりがギラギラと輝『……くん』

やがて、僕はイ『……くん、しょぼんくん!』

7 名前: ◆CtyM0huFrQmy :2009/08/22(土) 21:22:17.36 ID:3QShVMvCP










(   )(   川イヤホンの子どもたちのようです(    )(     )(   )











8 名前: ◆CtyM0huFrQmy :2009/08/22(土) 21:24:15.13 ID:3QShVMvCP
---1---

(´・ω・`)「!」

近しい叫び声を聴いて、僕は、どこか遠くへ行ってしまっていた自我を呼び戻した。
目の前でディスプレイが薄ぼんやりと光っている。

窓外は真夜中だ。時計は午前一時半を指している。だのに、僕は頬に汗を垂らしている。
熱帯夜なのだ、このところ毎日……。

『どうかしたの?』

イヤホンの中から伊藤さんの声が聞こえてくる。心配してくれていたことが、僕には嬉しい。

(´・ω・`)「いや……なんでもないです、ちょっと、ボーっとしていただけで」

僕は伊藤さんのことを、ほとんど何も知らない。顔も、年齢も、職業も、何もかも。
何せ、パソコンを使って通話をしたことしかないのだ。
女性だと言うことは辛うじて分かっているけど、それだって変声機を使っているのかもしれないし、
伊藤さんという名前だって、本物かどうかわからない。

便利なことに、最近ではインターネットを介した電話というものがある。
それを使えば、無料でいろんな人と通話をすることが出来るという按配だ。
しかも、インターネットで出会った見知らぬ人とでも気軽に会話することが出来る。

そして、僕の唯一の話し相手にしてまったくの他人であるのが、伊藤さんというわけだ。

『さっきの話、聞いてた?』

(´・ω・`)「いえ……すみません、聞いてなかったと思います」

9 名前: ◆CtyM0huFrQmy :2009/08/22(土) 21:26:46.07 ID:3QShVMvCP
『まあ、いいんだけどね。大した話じゃなかったから……』

普段から、特に決まった話題を話すわけじゃない。
大抵は雑談に終始するし、通話をつないだまま、一時間ほど互いに無言、ということもよくある。

ただ、そうした時間が紛れもなく、心地よいのだ。
僕の部屋は薄暗く、そして僕以外誰もいないけれど、
イヤホンの向こうから伊藤さんの発する声や動作に伴うノイズ、
そういった音を聞いているだけで、寂しさが払われ、ちょっとだけ幸せな気分になれる。

……というような僕の感情を伊藤さんに話したことは、当然無い。
ただ、三日に一度は通話する仲を、もう一年近く続けているのだ。
彼女だって、悪い思いはしていないだろう。

『……それにしても、暑いわね。しょぼんくん、レモンソーダある?』

(´・ω・`)「レモンソーダは無いです……ぬるいお茶ならありますけど」

それにしても、さっきのはなんだったんだろう。
ふとした瞬間に居眠りをして、その時に見た夢だったのだろうか。それにしてはやけに生々しかった。
まるで爆撃を受けた街を歩いているような……黒煙と腐臭……そして声。

(´・ω・`)「……伊藤さん」

『ん?』

(´・ω・`)「ちょっと、トイレに行ってきます」

12 名前: ◆CtyM0huFrQmy :2009/08/22(土) 21:29:38.03 ID:3QShVMvCP
そういって、僕はイヤホンをはずして立ち上がる。
残響のような雑音から解放されると、空間から音が消える。階下の両親はもう眠っているだろう。
それでも、僕は一応忍び足で歩き、ドアを開けた。

木製の扉は無音で開く。廊下の上に、もう食器を乗せたトレイはなくなっている。

(´・ω・`)「……」

素早く、しかし静かに、地面を這うゴキブリのような動きで階段を降りる。
幸いにも、階段は軋まなかった。

トイレに入り、意味もなく縮こまって用をたし、水を流す。
水は音を立てずに、便器の奥底に吸い込まれていく。

(´・ω・`)「……?」

違和感を覚えたのはその時だった。僕は周囲を見回す。何の変哲もない、狭いトイレ。
渦巻く熱気のせいで、じんわりとした汗が全身から浮き上がる。
周囲にはカレンダーやタオル、洗剤……それらはみな、一様にひっそりと佇んでいる。

(´・ω・`)「…… 」

僕は小さく、何事かを呟いた。それは十分、鼓膜を震わせたはずだった。

何も聞こえない。

13 名前: ◆CtyM0huFrQmy :2009/08/22(土) 21:32:13.13 ID:3QShVMvCP
ためしに僕は耳のそばで手を打ってみた。はじけるような痛みがするまで、何度も何度も。
それでも、無音。静寂。

(;´・ω・`)「……      ……!」

僕はまた、何かを叫んだ。そしてあわてて口をつぐむ。こんな状況でも、
両親への消極的な配慮は忘れられない。
トイレを出て、階段を駆け上がり、自分の部屋に入ってドアを勢いよく閉める。

やはり、何の音もしない。バタン、ともギイ、とも、誰も何も言わない。
胃袋のほうから押しあがってくる悲鳴をこらえ、僕はイヤホンに飛びついた。

(;´・ω・`)「い、伊藤さん、伊藤さん!」

『なに、どうしたの』

(;´・ω・`)「みみ、耳が、聞こえなくなったんです、何も、音が……!」

しばらく沈黙した後、伊藤さんは言った。

『何を言ってるの?』

(;´・ω・`)「だから、耳が聞こえないんですよ!」

『聞こえてるじゃない、私の声』

また、沈黙。しかも今度は、気まずい沈黙だった。低音のノイズが、イヤホンから断続的に流れ込んでくる。

聞こえているのだ、音が、声が。試しに耳のそばで手を打つ。パチン、と乾いた音がイヤホン越しに聞こえてくる。
どうも、ただの杞憂だったらしい……。まったく、恥ずかしいことこの上ない。

14 名前: ◆CtyM0huFrQmy :2009/08/22(土) 21:35:09.38 ID:3QShVMvCP

(´・ω・`)「……すみません、間違えました」

『とんでもない間違え方だね。今日は、疲れてるの?』

(´・ω・`)「そうかもしれません……特に疲れることはしてないんですけど」

それでも、そうとしか思えない。幻覚を見たうえ、幻聴と全く逆……
何も聞こえなくなるという錯覚にまで陥ったのだ。
時計を見ると、午前二時。寝惚けてしまっているのかもしれない。

僕はもう一度伊藤さんに謝罪をして、通話を切った。後には、いつも通りの無音が残る。
溜息をついて、僕はイヤホンを外す。

途端に、スゥッと空気が抜けるような感触を覚えた。

急激な不安が背中のほうからせり上がってきて、僕は後ろを振り返る。
誰もいない。そこには、小型のテレビが鎮座しているだけだ。
隣には、大きめの、今でも使用に耐えうる学習机もある。

それだけだ、それだけ。だのに、何故こんなにも心細いのだろう?
つい独り言を口ずさんだ、その時。

(´・ω・`)「…… 」

またしても、音は聞こえなかった。

15 名前: ◆CtyM0huFrQmy :2009/08/22(土) 21:37:42.31 ID:3QShVMvCP
やっぱり杞憂ではなかったのだ。音が聞こえない。何も聞こえてこない!
ただ、どういうわけだろう、さっきの伊藤さんの声はしっかり、はっきりと聞こえたのだ。
それだけでなく、機械特有のノイズまでも……。

おかしなことに、その矛盾点が、僕の混乱と狂騒をある程度鎮めるのに役立った。
平静を努めながら、僕はイヤホンをはめて、適当な動画サイトを巡って音楽をかけてみた。

(´・ω・`)「……」

聞こえる。しっかり聞こえる。

ということは、このパソコンからの音のみが聞こえるということだろうか。
次に、イヤホンを接続端子から引っこ抜いて、充電中だった携帯音楽プレイヤーに接続する。

僕はこのイヤホンを、日常ほとんどの時間で使用している。
外出するときは今と同じように音楽プレイヤーに挿しているし、
家では専らパソコンと繋いで、何かしらの音楽などを聞いている。肌身離すことのない、必需品なのだ。

再生ボタンを押したところ、いつも通りの音楽が流れる。聞こえている。鼓膜が震えている。
最後に、プレイヤーから引っこ抜き、何にも繋げず耳を澄ませる。
何かしらが聞こえる。環境音……窓外の音だろうか、ともかく、何かの音が、存在している。

そしてイヤホンを外すと、その僅かな音も不在へと転換する。

信じられないが、つまりこういうことらしい。

僕自身の聴覚を、僕ではなく、イヤホンが支配している。

16 名前: ◆CtyM0huFrQmy :2009/08/22(土) 21:40:31.81 ID:3QShVMvCP
ネットを使って、類似の症状を検索してみる。しかし、無論一件も引っかからない。
やはりこれは、僕特有の症状であるらしいのだ。

医者に行くべきだろうか。しかし、行ったところで何も解決はするまい。
信じられず、黄色い救急車に乗せられるのがオチだ。

現状では、生活にほとんど支障はないように思える。
完全に聞こえないわけではないのだ。イヤホンをはめていれば、いつもと変わらない生活が送れる。
唯一の話し相手である伊藤さんにも、通話でしか話さないから無問題だ。

ただ、これから先のことを考えた場合……これは、ウンザリするほどのハンディキャップとなるだろう。
もしかしたら、特殊症状として衆目にさらされるかもしれない。

いやだ、それだけは勘弁してほしい。人見知りの僕が、そんな公開処刑に耐えられるわけがない。

(´・ω・`)「……どうしたらいいんだろう」

イヤホンを付けたまま、僕はひとりごちた。その声は、イヤホン越しで微かにしか聞こえない。
こんな老人のような状態を、まさか二十になって間もない時期に体感するとは思ってもみなかった。

マンガの散らばっているベッドに倒れこむ。
そしてそのまま、何事からも逃れるような勢いで目を閉じ、睡眠へと没入する。

イヤホンが何かを言ったような気がした。しかし、半睡の僕には何も聞こえなかった。


19 名前: ◆CtyM0huFrQmy :2009/08/22(土) 21:45:46.99 ID:3QShVMvCP
---2---

最近、二種類の夢を見る。というか、それ以外の夢を見ることがない。
一つ目は僕が両親を殺す夢。そして二つ目は、両親が僕を殺す夢だ。

一つ目の夢で、僕は大体台所にいる。両親は食卓で、朝ごはんを食べている。

僕はまず、母親を背後から、金槌で殴りつける。
後頭部やこめかみを幾度となく殴打すると、母親はサスペンスドラマみたいな、ゆっくりとした動作で床に倒れる。
そして、青と黒の混じったような血を身体中から流して息絶えてしまう。

その間、父親は何もせずに僕を見つめている。
その眼は、悲しみのような色に染められていて、しかし何も言わないし、僕の行為を止めようともしない。
少し荒い呼吸音だけが生命の証しのようにして鼓膜に粘着する。

母を殺したあと、僕はそんな父親に殴りかかる。
やはり父は逃げようともせず、殴打されるままに任せている。
僕は彼の至る所をめちゃくちゃに叩いて凹ませ、血を噴出させる。

やがて父が倒れる。僕は金槌を倒れた彼の頭に向かって投げつける。
金づちは父の頭でバウンドして、食卓の隅に消える。

その後、僕は何かを叫ぶ。それは両親への、あらん限りの罵倒だ。
しかし、何を言っているのかは、いつも記憶できない。というよりは、叫び声そのものが聞こえてこないのだ。
そして、叫び終えるとすぐさま、目が覚める。

21 名前: ◆CtyM0huFrQmy :2009/08/22(土) 21:49:05.67 ID:3QShVMvCP
二つ目の夢では、立場が全く逆転する。つまり僕が殴られる側で、両親が二人して僕を殺害するわけだ。

二人とも、まったく無表情の、出来損ないの人形みたいな顔をしている。
僕を殴る間も少しも表情をゆがめず、機械的な動作で金槌を振るう。

殴られても痛みは感じない。まるで、自分自身を腹の中からみているような感じ。胎児の気分だ。
やがて僕は死ぬ。明確に死ぬわけではないが、そう直感する。

その時、両親は、僕がそうしたように、僕を狂ったように罵るのだ。
それは叫び声だし、怒鳴り声なのだが、何故か表情は一切変化しない。
内容はやはり全く覚えておらず、それが終わるころに目覚める。

そんな夢をほとんど一日ごとに見る。実生活に支障をきたすほどではないが、不愉快なことには違いない。
だいいち、僕は殺害するほどの動機を両親に対して持っていないのだ。

もっとも、逆はどうだろう……両親は、僕を殺害するに十分な理由を持っているのではないだろうか。
それは、この夢を見始めたとき……つまり二カ月ほど前に遡れば明らかだ。

その頃、僕は大学を辞めた。同時に、それまで続けていたアルバイトもやめた。
今や立派なニートだ。だから、夜遅くまで起きていても平気なのである。

大学を辞めた時、両親とも、僕を一切非難しなかった。むしろ全力で同情したのだ。

J( ;'ー`)し「だ、大学だけがすべてじゃないわ……人それぞれ、生き方があるものね」

どもりながら、そう言ったのは母親だった。
父親は特に何も言わなかったが、叱りもせず、所謂無言の気遣いというものをやりはじめた。

それが痛かった。どうせなら、精一杯どなってくれればよかったのに、説教してくれればよかったのに。

22 名前: ◆CtyM0huFrQmy :2009/08/22(土) 21:52:44.65 ID:3QShVMvCP
……しかし、それを理由に、僕が両親を殺す夢を見るのだとしたら、それは逆恨み以外のなにものでもない。
僕自身、今以上に屑であるということになってしまう。

引きこもって以来、当然家には居づらくなり、
両親の同情からも目をそむけたくなって、僕は部屋に引き籠るようになった。

それから約二カ月。食事は、毎日三度ドアの前に、トレイに乗せて置かれている。
僕も親も、互いに顔を合わせたくないのかもしれない。昨日の夕食は焼きそばだった。

ただ……こんなことを言うのもなんだが、最近の母の料理は日増しにまずくなっている。
味のバランスがおかしいとでも言えばいいのか……昨晩の焼きそばだって、奇妙なことに、少し甘ったるかった。
買い置きのお茶を使って、薬を服用する時みたいに、やっとの思いで飲み下したのだ。

(´・ω・`)「……」

僕は今、薄ぼんやりと目を開けて暗い天井を見上げている。
耳に触れると、イヤホンがしっかりとはめこまれている。眠っている間に、よく取れなかったものだ。

今日は、件の夢を見なかった。僕は殺しも、殺されもしなかった。
が、その代わりに全く別の夢を見た。記憶は曖昧だが、確かこんな内容だったと思う。

そこは狭く暗いリビングで、旧式の箱型テレビだけが薄暗く光っている。
カーペットの上に若い女がいる。見たことのない、垂れ目の特徴的な女性だ。

彼女はカーペットにひざをついて、手元に赤ん坊を寝かせている。
そしてゆっくりと赤ん坊の首に手を伸ばし、白く柔らかい肌を指で包むと、一気に力を込める。
絞殺しようとしているのだ。

24 名前: ◆CtyM0huFrQmy :2009/08/22(土) 21:57:10.58 ID:3QShVMvCP
僕はその風景を、どこからともなく眺めている。
まるでテレビドラマのように自在なカメラワークで、時に母親の無表情を見たり、
時に絞め殺す両手を注視したりする。

恐らくは母親であろう女性の無表情に対し、赤ん坊は怨恨と憤怒の極みのような顔をしている。
ギラギラと母親を睨みつけ、機械仕掛けのカラクリ人形みたいなぎこちない動作で、
手足を上下左右に動かしている。

僕はその様子を母親の顔のちょうど隣から眺めていた。全体的に、音は無かった。
そういえば、件の二種類の夢も、まったくの無音、無声だった……。イヤホンのせい、というわけではないらしい。

やがて赤ん坊の動作が弱まる。憎悪の塊を向ける相貌だけを残して、次第に色を失っていく。
その一瞬、赤ん坊の顔が母親の顔からはずれ、僕を見た。
心臓を直接抉り取るような視線。僕は思わず何かを叫んで、そして目覚めた。

そんな、夢だった

(´・ω・`)「……」

窓外から朝の音が聞こえる。やかましい蝉の鳴き声……。
それに加えて、何かを叩くような音が聞こえてくる。
細かく、そして断続的に。自然の音ではなく、人工的なものであることは明白だった。

何の音だ……?

僕はベッドの上から首だけを動かして、音の方向を見遣る。
それは、ちょうど向かい側に位置する学習机のほうだ。

26 名前: ◆CtyM0huFrQmy :2009/08/22(土) 22:00:50.30 ID:3QShVMvCP
(;´・ω・`)「……!」

僕は不用意に叫び声を上げそうになった。
学習机の回転椅子に、誰かが座っている。そして、必死でペンを走らせている。
叩く音は、文字を記述する音だったのだ。

誰だ? 何故僕の部屋にいる?

家族ではない。男だが、父親よりも若く、どちらかというと僕と似た年頃だろう。背は低く、小太りだ。
後姿なので顔まではわからないが、見知った人物でもなさそうだ。
体のほとんどを動かさず、ただ右手だけを動かして、何かを書き続けている。

僕はしばらく彼の姿をじっと眺めていた。他にどうすることができよう。
学習机は窓側にある。その隣にテレビ、そして本棚。
対向する壁側に僕が今寝ているベッドと、パソコン机。その向こうに廊下へと続く扉がある。

ともかく部屋を出よう……と、僕は思った。耳のことは差し置くとしても、不審者については対処のしようが無い。
忍びないことではあるが、両親にでも訴える、もしくは電話をするべきだ。

携帯電話を水没させて壊したまま、放置していることを今更悔やむ。
パソコンからの通信は可能だが、何せスピードに欠けるし、気取られたら元も子もない。

僕はベッドの上を尺取虫のように動いて、なるべく扉に近いところで床に下りる。
幸い、男は物書きに夢中で、こちらの動作には目もくれない。

それにしても、何故男はわざわざ僕の机で物書きをしているのだろうか? 
わざわざ人の部屋に忍び込んで、盗みをするわけでもなく、僕に危害を加えるつもりも無いらしい。

どうしてそんなことを?

28 名前: ◆CtyM0huFrQmy :2009/08/22(土) 22:03:10.97 ID:3QShVMvCP
忍び足で扉に近寄り、ノブに手をかける。外に出られれば、しめたものだ。

(´・ω・`)「……?」

だが、扉は開かなかった。というより、ノブが回らない。
接着剤で固定されてしまったかのように、右にも左にも、少しも動かない。

僕は焦って、なんとか動かそうと全身の力を込めてドアノブを動かした。
それでも、動かない。
まるでそれ自体がコンクリートのオブジェになってしまったかのように、そもそも動くものではないかのように。

(;´・ω・`)「開け、よ!」

僕はここで初めて怒声を上げ、ドアを蹴飛ばした。いつもより硬い痛みと痺れが足全体を覆った。

(;´・ω・`)「……」

開かない。何をしても、開きそうに無かった。ならば、脱出手段は窓からしかあるまい。
二階だが、落ちても死にはしないだろう。

そう思って振り返ったところで、僕は凍りついた。
物書きに熱中していた男が、首を捻じ曲げて、僕を見つめていた。

( ^ω^)「……」

男は、不自然なほどに頬の肉と口角を吊り上げて笑っていた。
細く曲線を描く目、顔全体がひしゃげているように見える。
元々そのような表情なのかもしれないと思えるほどに、彼はその潰れた笑顔のまま少しも表情を動かさない。

29 名前: ◆CtyM0huFrQmy :2009/08/22(土) 22:07:19.64 ID:3QShVMvCP
彼の視線は僕をたじろがせ、そして一歩も歩かせない力を持っていた。

ドアに細工をしたのは、彼なのだろうか?
そうとしか考えられなかった。彼が意図的な工作をして、僕をこの部屋に閉じ込めたのだ。

(;´・ω・`)「……お前、誰だよ」

震える声で訊ねる。何故か、奥底のほうから笑いがこみ上げてきた。
笑うべきでないときについ笑ってしまうのは、僕の悪癖なのだ。

彼は笑顔のまま無言だった。道化のような恐ろしさを感じる笑顔だ。やがて、低い声で言った。

( ^ω^)「閉じ込められたお。この部屋に、ぼくは、閉じ込められたんだお」

渾身の力で握り締めているのか、手元のボールペンが危うい音を鳴らしている。
それにしても、一体どういうわけだろう。閉じ込められたというのは、こっちの台詞だ。被害者は、僕なのだ。

それとも、こう言いたいのだろうか。
彼も同様に被害者である……見知らぬ加害者かによって、外部からこの部屋に置きざられた、と。

ともかくはっきりしたのは、危害を加えるつもりがないらしいということだ。
僕は僕のほうを向いたままの彼の傍をすりぬけ、窓に近寄った。

窓は硬く閉じられ、鍵が掛けられている。この部屋には、冷房設備が扇風機しかなく、夏は特に寝苦しい。
だから普段は窓を開けているし、昨日もそうしていたはずだ。

何者かが閉めたということになる……。
鍵を開けようとしたが、掛け金自体がピクリとも動かない。押し下げようとする力は、全て虚しく吸収される。

ここに完全な密室が出来上がってしまった。そしてその中に、見知らぬ男と放り込まれているわけだ。

30 名前: ◆CtyM0huFrQmy :2009/08/22(土) 22:11:10.90 ID:3QShVMvCP
寝起きのせいか、上手く頭が回らない。どうすればいいのだろう? 最善の方策はどこにある?
聴力の怪異に続く二つ目の不幸。しかし今回はイヤホンのような回避手段がまったく見当たらない。

昨日のうちに、親にでも誰にでも相談しておけばよかったのだ……と後悔する。
しかし、両親にこれ以上迷惑を掛けたくないという後ろめたさが僕をおしとどめたのだ。
結果、事態は急激に悪化してしまった……。

男は僕への興味を失ったのか、再び学習机に向かって筆記具を走らせ始めた。
何をそんなに必死に書くことがあろう。
彼も僕と同じ身分の被害者なら、それより先にするべきことがあるはずだ。

(´・ω・`)「……何を、書いてるんだ」

苛立ち紛れに僕は訊いた。

( ^ω^)「書いてるんじゃないお、書かされてるんだお」

(´・ω・`)「なんだって?」

( ^ω^)「腕が止まらないんだお……」

彼は、ゲッゲッと喉を鳴らした。額に脂汗が浮かんでいる。
笑顔の奥の細い黒目は、ひっきりなしに上下左右へ動き回っている。

彼は左の手で紙を取り上げ、バサバサと乱暴に整理し、やがて一枚を僕に突きつけた。

31 名前: ◆CtyM0huFrQmy :2009/08/22(土) 22:16:14.03 ID:3QShVMvCP
それは、一枚目の表紙となる部分らしかった。
安っぽい、白い紙に滲んだインクで大きくタイトルが書かれている。
なんともなしに、僕はそれを読み上げた。

(´・ω・`)「……イヤホンの子どもたち、に関する、陳情書……」

読み終わると、男は僕の手から紙を奪い返し、そして奇妙に整った白い前歯をむき出しにした。

( ^ω^)「君の名前は?」

(´・ω・`)「え?」

( ^ω^)「名前……きみも、陳情団の一員なんだお、ここに、名前を、書かないといけないお。
      名前、教えてくれお」

男は、コツコツ、と筆記具の背で机をたたく。

彼が何を言っているのか、僕には理解できない。陳情団? なんのだ?
その陳情書に、僕も一枚かんでいるというのか、どうして?

陳情書というものがどういうものなのか、僕はよく知らない。
だが、たぶん、権力者のところへ何かをお願いするときに持っていく書類のことなのだろう。
先ほどのタイトル……イヤホンの子どもたちに関する陳情書……。

イヤホンの子どもたち?

34 名前: ◆CtyM0huFrQmy :2009/08/22(土) 22:19:22.03 ID:3QShVMvCP
僕は思わず耳にはめこんだままのイヤホンに手を触れた。
今の自分にとって、音を聞くために欠かせないツール。なら、イヤホンの子どもたちというのは……。

そのとき、不意に周囲の景色が視界から遠ざかった。
何もない、虚無の世界に連れて行かれたような錯覚。環境音も、男の姿も、全てが消え去った。

そして次の瞬間、耳の中で音が爆発した。

(´ ω `)「ぁぁ……!」

赤ん坊のヒステリックな泣き声、老婆のような、しわがれた怒声。汚らしい排泄音。
車の急ブレーキ。電車の鳴らす汽笛。何か重たい物が地面に落下して潰れる鈍い音。

それらの音が、一斉に鼓膜を叩く。
渦を巻きながら、殺意を持った狂音が、鋭利な刃物のように器官へ突き刺さる。

(´ ω `)「……っぁああ」

たまらず、僕はイヤホンをはずそうともがいた。
しかし焦っているせいか手が上手く動かず、掴むことすら、ままならない。

それどころか、逆にイヤホンが耳の奥へじわじわと食い込んでくる。
否が応にも聞かせようとするかのように。

36 名前: ◆CtyM0huFrQmy :2009/08/22(土) 22:22:33.16 ID:3QShVMvCP
腰の辺りで不恰好に揺れるコードが妙にまとわりついてくる。不快な轟音は響き続ける。

音は何かを表現している。肉を引き裂き、飛び散った赤黒い血を踏みつけて歩く何者か。
そいつは足音を響かせてこちらに向かってやってくる。

(´ ω `)「来るな……!」

見えない誰かに僕は言う。視界は、ブラックアウトしてしまっていて、ここがどこなのかも分からない。

『誰か』は徐々に、血の海で足を引きずらせながらやってくる。笑っている。
ケケケ、と不気味に笑いながら近づいてくる。背景で、別の誰かが断末魔の呻き声をあげている。

『誰か』はやがて、ピタリとすぐ近くに立ち止まった。それと同時に、轟音が止んだ。
耳元で、熱っぽい呼吸音。濡れた手を何かに当てているような、ひたひたと吸い付く音。

(   )「……イヤホンの、こどもたちだよ」

『誰か』が言った。甲高く、ねばっこい声だ。

(   )「イヤホンの、こどもたちだよ。きみだよ。
     いっしょに、僕らの、ことばを、僕らのこえで、つたえよう。つたえよう」

言葉に慣れていない風に、少しずつ区切ってゆっくりと喋る。
そして、『誰か』はそれだけ言い終えると、またケケと笑って、次第に気配ごと遠ざかっていった。
そして、最後に一言、言い残した。

(   )「……かわいそうに、かわいそうに。ケケケ、ケケケ」

38 名前: ◆CtyM0huFrQmy :2009/08/22(土) 22:25:19.82 ID:3QShVMvCP
『誰か』の気配が消えると同時に、視界に光が回復した。
目の前で、男の不気味な笑顔が僕の顔を覗き込んでいる。

( ^ω^)「大丈夫かお?」

いつの間にか、僕は体勢を崩して床に膝をついていた。
今まで、自分がどんな格好をしているのかすらわからなかったのだ。
やけに頭が重い。頭蓋骨を締め上げられているような、軋む音が脳内をいっぱいに満たしている。

僕は立ち上がりながら、今さっきまで僕に語りかけてきた存在を想起した。
何故だか、そのイメージは血まみれの新生児に固定していた。
イメージの中の新生児は、宙に浮かび、僕に向かって笑顔を向けている。

やあ、こんにちは。ところで君は、誰の子だい?

41 名前: ◆CtyM0huFrQmy :2009/08/22(土) 22:29:13.49 ID:3QShVMvCP
---3---

部屋に閉じ込められた僕にできること……それは、外部からの救出への期待だった。

あわよくば父親か母親が僕の窮状に気づいてくれるかもしれない……
だが現実問題、その望みは現状かなり薄かった。日数を経ればさすがに気づくかもしれないが、
普段から引き篭もっている人間が部屋に閉じ込められているなど、どうやって気づくというのだろう。

まして、その部屋に僕以外の男が一人、居座っているなどと。
だから僕は別の方策……即ち、パソコンを使うことを思いついたのだ。

このパソコンがインターネット機能を有していることは、有り余る僥倖だった。
ともかく、外部への伝達手段となるわけである。その点で、この空間は未だ、完全なる密室ではないのだ。

僕はパソコンの電源を入れた。ディスプレイが薄ぼんやり輝きだす。電気は途絶えていないのだ。
起動を終えるのを待ちながら、僕は学習机へ振り返る。

笑顔の男は、陳情書(?)執筆の作業を再開して以来一言も喋らない。
学習机は普段から使わないし、大した邪魔にはならないのだ。
イヤホンからの狂音と『誰か』の囁きを聴いた後では、男の存在がまだ易しいもののように思えてくる。

しかし、この鼻腔でネチャネチャと蠢くような体臭はどうにかならないものか……。

42 名前: ◆CtyM0huFrQmy :2009/08/22(土) 22:32:32.12 ID:3QShVMvCP
それにしても、狂音の正体はなんだろうか。

前半の効果音はまだしも、後半の語りは、確実に僕を対象としていた。
つまりイヤホンの子どもは僕を指しているのだ。
笑う男によれば、そのうえ僕は陳情団の一員でもあるらしい。

だが、それよりも恐ろしいのは、ああいった聴覚の支配が、
イヤホンをしている限りいつでも起こりえるということだ。

いっそイヤホンをはずしてしまいたいとも思う。だが、無音もまた、凶器の種として十分な要因になるのだ。
聾になって初めてわかったことなのだが、ほんのわずかな雑音でも、耳は過敏に感じ取り、
そしてそれによって、感覚の存在に安心するらしいのである。

起動を終えたパソコンを操作して、まずは習慣となっている、通話ソフトを立ち上げる。

(´・ω・`)「……よし」

僕は小さく歓喜の声を出した。無事インターネットを繋ぐことができたのだ。
今伊藤さんはログインしていない……つまり通話やチャットなどができない状態だが、
夜になれば来てくれるだろう。

だがそれを待つまでもないかもしれない。
インターネットでくまなく検索していれば、そのうち救済手段は見つかるはずだ。
何せ最近のネットワークというのは凄いのだから……。

44 名前: ◆CtyM0huFrQmy :2009/08/22(土) 22:36:46.79 ID:3QShVMvCP
そう思ってブラウザを立ち上げたのだが、どういうわけか、一向にページを開こうとしない。
白紙の画面のまま、微動だにしないのだ。

(´・ω・`)「……?」

一旦ブラウザを閉じて、再起動してみる。結果は同じだった。
ディスプレイを叩いたり、意味もなくカーソルを動かしたり、キーボードをガチャガチャやってみても同様だった。
ブラウザは真っ白のまま固まって、ウェブページに繋がらない。

僕は深くため息をついて、椅子に座りなおした。

初めての出来事ではない。コンピュータがコンピュータである以上、不具合が起きることは、ままある。
だから今、このタイミングでウェブに繋がらないことも、偶然の不幸なのだ。
しばらく待っていれば、普通に機能するようになる。偶然だ、偶然……そう信じよう。

それに、通話ソフトは繋がっているじゃないか。完全に隔離されたわけじゃない。
ここは密室じゃない。いつかは誰かに助けられる……。

……いや、むしろそれは怪異だろうか? 何故通話ソフトは繋がるのに、ウェブブラウザは繋がらない? 
こんなことは今までになかった。必ず、両方繋がらないか、あるいは両方繋がるかの二択なのだ。

46 名前: ◆CtyM0huFrQmy :2009/08/22(土) 22:40:44.02 ID:3QShVMvCP
僕は通話ソフトのウインドウに並ぶ、コンタクトリストを眺める。

そこには以前チャットや通話などをしたことのある面子が並んでいるが、
今は平日の昼間ということもあり、オンラインになっている人物は一人もいない。
もっとも、今や通話やチャットの相手は伊藤さん一人に限られているのだが……。

とはいえ、リストの中にはネトゲ廃人を自称する者や、自分と同じ引き篭もりを自称する人物もいた。
そういった面々が軒並みオフライン……そんなことは有り得るだろうか? 
しかし、自身の状態はオンラインであるというマークは、右下にはっきりと表示されている。

(´・ω・`)「……」

余計に頭が痛む。謎が多すぎるのだ。ここらで一度、整理しておこう。僕はメモソフトを起動させた。

『一つ目……何故イヤホンをはめている時だけ音が聞こえる?

 二つ目……何故閉じ込められた? 一緒にいる男は何者?

 三つ目……イヤホンの子どもたちとは? 陳情書とは?

 四つ目……イヤホンを通じて話しかけてきた相手は誰?

 五つ目……ブラウザがウェブに繋がらないのはどうして?

 六つ目……イメージの中に現れた新生児は何者?     』

47 名前: ◆CtyM0huFrQmy :2009/08/22(土) 22:44:35.65 ID:3QShVMvCP
(´・ω・`)「……」

列挙してみて、改めて唖然とする。たった一晩と数時間で、一気にこれだけの謎が僕の周囲を取り巻いたのだ。
しかも、全てを解かないと僕は現状から脱出できないのだろう。
怪異とは、常にそういうものなのだ……冗談じゃない、こんなもの、全て解決できるわけがないだろう!?

だが、これらには全て共通したキーワードがある。
すなわち、「イヤホン」「聴力」……その線を辿れば、何かを発見できるかもしれない。
更に、三つ目の謎が糸口となる可能性が高い。何せ、陳情書は、今この部屋に存在しているのだから……。

僕は男を見た。相変わらず修羅の勢いでガリガリとペンを削るようにして書き続けている。
彼が書いた陳情書……その一部でも見せてもらえれば、分かることがあるかもしれない。

(´・ω・`)「……ねえ」

どういう言葉をかけていいのか分からず、中途半端な台詞が口から漏れる。
男はペンを進める、その勢いのままこちらを振り返った。

( ^ω^)「?」

(´・ω・`)「ちょっとそれ……見せてもらえる? もう、書き終わった部分だけでいいから」

引きつった笑みでそう言うと、彼は首が馬鹿になったかのように、ガクガクと何度も首肯した。
それから不意に動きを止めて、ボソリと呟いた。

( ^ω^)「……後で、名前を教えてくれお」

(´・ω・`)「わかったよ」

この際やむを得ない。

51 名前: ◆CtyM0huFrQmy :2009/08/22(土) 22:48:55.39 ID:3QShVMvCP
僕は学習机の傍らに積まれている陳情書を手にし、一枚目から読み始める。
紙面には、細かい記号のような文字が連綿と、段落なしで書き連ねられていた。

『以下に記す内容は我々新人類、俗称イヤホンの子どもたちが、貴方がた旧人類、
 俗称人間の皆様に対して宛てられた陳情書です。これらは全てのイヤホンの子どもたちが持ち合わせており、
 つまりこの陳情書は数万枚とコピーされ、全ての子どもたちに行き渡っております。であるからして、
 貴方がたがもしも我々の陳情を無視してこの陳情書を破棄するようなことがあれば別の子どもが貴方がたの、
 ところに訪れます。私たちが望むところとしましては、貴方がたが賢明なるご判断の元、陳情書の内容を検討、
 受理していただきたいところであります……』

そこまで読んで、僕は視線をはずし、頭を左右に振った。とても読みきれる字の大きさではない。
手書きだからところどころ崩れているし、文章も回りくどい。
読ませないために、わざとこんな文字で記述しているようにさえ思えてしまう。

ともかく、ここまでで分かったことは以下の二点だ。

・イヤホンの子どもたちは自らを新人類と呼び、人間を旧人類と呼ぶ。

・イヤホンの子どもたちは人間に対して何かを要求している。

そして、僕自身、イヤホンの子どもたち、つまり新人類であるならば、
僕も彼らと一緒に、何かを要求していることになる。

……こうなると、自問せざるを得ない。

僕は、何を望んでいるのだ? あるいは、何を望まされている?

52 名前: ◆CtyM0huFrQmy :2009/08/22(土) 22:52:15.36 ID:3QShVMvCP
---4---

窓外の景色は、密室とは関係無く変化する太陽は動くし、人々は行き交う。
そして、その中の誰一人として、僕らの現状に気づく者はいない。

一度は窓を叩いて外に知らせようとしたのだが、コンクリートのように高質化してしまった窓は、
今や透明なだけの壁であり、震動もしなければ、外部へ音を伝えない。

両親も、気づいていないのか(もしくは気づいていても、為す術がないのか)、
扉の向こうからは何の音沙汰もない。
もしかしたら、手つかずの食事を入れ替える作業に没頭しているのかもしれないが……。

僕はひたすら伊藤さんがログインするのを待ちわびた。
彼女の知恵を借りたい……というのはほとんど建前に過ぎない。
一刻も早く誰かと……いや、伊藤さんと話がしたかった。

結局、彼女がログインしたのはパソコンの内蔵時計で午後十時になった頃……
それまで僕は飲まず食わずで堪え忍んだのだった。

ただ、それは笑う男も同様だ。
もっとも、彼はどうやら操られているらしいので、空腹など感じている暇もないかもしれないが。

ちなみに、伊藤さん以外の面子は軒並みログインしてこなかった。
おかしな話だ、いつもなら、数人は確実にログインしているのに。

(´・ω・`)『伊藤さん』

僕はチャットで彼女に話しかけた。さすがに、他者がいる状況で通話は躊躇われる。

53 名前: ◆CtyM0huFrQmy :2009/08/22(土) 22:56:50.73 ID:3QShVMvCP
『どうかしたの?』

すぐに伊藤さんは答えを返してくれた。その時点で、僕は少しだけ安堵できた。
よかった、伊藤さんはディスプレイの向こう側にしっかりと存在してくれている……。

(´・ω・`)『大変なんです。聞いてください』

僕は彼女に、ほとんど強引に洗いざらいを、ぶちまけた。
聴覚の異常が杞憂ではなかったこと、イヤホンの子どもたち、陳情団、笑う男……伝えるべき事は数多あった。
ただ、文字表現だったから僕の緊迫感までは伝えられなかったかもしれない。
それでも、出来る限りのことを話そうと、僕は必死だった。

(´・ω・`)『……以上です。僕はこれから、どうすればいいんでしょう』

僕が話し終えると、伊藤さんからの返事はなかなか来なかった。
数分経ち、ようやく彼女のメッセージが画面に表示された。

『耳って言うのはね、人間のマゾヒズムなのよ。ある作家が言ってたわ。
 視覚を遮断するには、目を閉じればいいわね。味覚を封じるなら、何も食べなければいい。
 でも耳は違う。それ自体で、聴覚の遮断をおこなうことができないのよ。
 外部から流れてくる音楽をそのまま、受け止めて脳に伝達するだけ。不快な音でも関係無く、ね。
 どういうことかわかる?』

(´・ω・`)『……どういうことなんでしょう?』

55 名前: ◆CtyM0huFrQmy :2009/08/22(土) 23:00:14.83 ID:3QShVMvCP
『怪異が存在するとして……耳が最も狙われやすい、ということよ。
 まず、耳から……そういう思惑があるのかもしれない』

(´・ω・`)『つまり、これからさらに僕は侵略されると言うことですか?』

『かもしれない』

僕は戦慄した。確かに、彼女の言うとおりであるような気がした。
聴覚の支配は、まだ序章に過ぎない……いずれ、他の器官が侵略されてしまう。

でも……でも! 僕は八つ当たり気味に思う。何故伊藤さんは、わざわざそんなことを……。

『ねえ、なんで私が、わざわざこんな事を言うのか、わかる?』

(´・ω・`)『……いいえ、分からないです』

『そう。じゃあいいわ』

……きっと文字のせいだろう。彼女の言葉が、ひどく冷徹なものであるように思えた。

59 名前: ◆CtyM0huFrQmy :2009/08/22(土) 23:04:34.57 ID:3QShVMvCP
だが聴覚以外の支配……と言われて、ピンと来たものがある。
この異変の、そもそもの始まり……黒煙と腐臭の漂う瓦礫の荒野を歩いている、イメージ。
あれは間違いなく、視覚の支配だったのではないか。

そもそも、聴覚の異変がいつ始まったのかは定かでない。
あの前後、僕はずっとイヤホンをしていたのだから。たまたまトイレで気づいたと言うだけの話……。

必然的に回答は見いだされる。

僕はすでに、二つの感覚を持って行かれている……?

『伊藤さん……』

僕がキーボードをたたき始めた時、まるで僕の疑念を証明するかのように、突如視界が遠ざかった。
ブレーカーが落ちたのかと思えるほど、一瞬で光が消失した。
イヤホンの中で鳴っていたノイズと環境音も消える。
存在するのは、耳を塞いでいるその感触と、僅かばかりの自我のみだ。

(´ ω `)「……あぁ」

僕は本能レベルで、どのような反応をすべきか迷っていた。消えてしまった視界。
まさか失明したわけではあるまい。これもまた、怪異の一つなのだ。今までの中で、最もおとなしい部類の……。

暗黒の牢獄は随分と長く僕を放置し続けた。もしや一生このままなのではないか、というような不安さえよぎる。
もしそうなら、余りにもあっけない幕切れだ。逆に笑い話になるかもしれない。

だが、幸か不幸か、そうはならず、やがて視界に光が、徐々に戻ってきた。

同時に音が周囲を包む。轟々という風の音。そして人々のざわめき。何かを知らせる電子音。

60 名前: ◆CtyM0huFrQmy :2009/08/22(土) 23:07:52.36 ID:3QShVMvCP
そこは、近所にある駅の、吹きさらしのプラットホームだった。
遠出をするときはよく利用していて、馴染み深い。
少なくとも、これまでの幻覚よりは遥かに現実的である。しっかりと、環境音も聞こえてくる。

僕自身がどこに立っているのかは、定かでない。線路の上から、プラットホームを望んでいるような感じだ。
特急電車がスピードを落とさないまま、彼方からやってくる。カタン、カタンと線路が鳴る音が聞こえる。

その時僕は、プラットホームにたむろする群衆の中に、母親の姿を見つけた。
熱気のせいで空気が揺らめき、その姿は曖昧だが、確かに母の姿だ。

反射的に僕は逃げ出そうとしたが、身体が動かない。
どうやら、このまま見続けているしかないようだ。母が僕の姿を見つけないことを祈るしかない。

母の姿は確認できたものの、その表情まではうかがう事ができない。
彼女は携帯電話を弄っていた。しきりに指を動かしているところから、メールでも打っているのだろうか。

やがてそれを終えたらしく、彼女は携帯をセカンドバッグに入れ、線路の敷石をじっと見下ろし始めた。
その頭上から、アナウンスが降ってくる。

『間もなく、一番線を通過する電車は……特急…………行きです……』

母は会話に夢中な群集から一歩離れた、最も先頭に立ち尽くしている。
これからやって来る電車はこの駅には止まらない。それなのに、彼女の立ち位置は前過ぎるような気がした。

(´・ω・`)「……」

僕はしばらく、彼女の意図に気づくことができなかった。

プアアアアアアアアと、警笛を鳴らし、電車が近づいてくる。その瞬間、母は一歩、前に踏み込んだ。

63 名前: ◆CtyM0huFrQmy :2009/08/22(土) 23:11:35.05 ID:3QShVMvCP
(;´・ω・`)「!」

気づいて叫び声をあげようとした時には、もう遅かった。
おぼろげな彼女の身体がゆっくりと前のめりになり、線路の上へ落ちていく。
そして電車の眼前で、線路に落下した。

その上を電車が通過する。キリキリキリ、と鋭いブレーキ音。

ガリガリ
     ガリガリ

カラカラカラ

      キキキ
          ガガガ
              キキキキィ
                     ィ
                      ィィィィィ!!!!!!!!!

凄まじい、ヒステリックな叫び声のような音をたてて、母親の肉と骨を車輪が砕いた。
綺麗に切断された足の断片が飛び上がって彼方の敷石に落ちた。
電車はしばらく止まらず、血と内臓の破片をこびりつかせた車両を走らせ、
僕の頭上(或いは体内)を通過してようやく停止した。

プラットホームが一気にざわつきだす。携帯電話のシャッター音が、此方に向かって響く。

(´・ω・`)「……」

死んでしまった。母さんが、電車に飛び込んで死んでしまった。
事実認識もできないまま、不意に視界が切り替わった。

64 名前: ◆CtyM0huFrQmy :2009/08/22(土) 23:15:36.82 ID:3QShVMvCP
風が吹いている。眼前には開発途中の街並み、眼下には往来する人々と車。
その風景にも見覚えがある。家から徒歩二十分ぐらいの場所にある、このあたりの中心街だ。

そしてここは、街路に建ち並ぶ子小汚い雑居ビル、その一つの屋上であるらしい。
こんなところに上るのは、無論初めての経験だ。
先ほどの風景よりは馴染みがないが、普段から見慣れている場所ということに変わりはない。
ただ、視点が違うというだけの話だ。

フェンスが無い、危なっかしい場所だ。飛び降り自殺には格好の……。

ふと隣を見ると、父がいた。彼は、先ほど母がそうしていたように、眼下を見下ろしている。
死ぬのだ、と直感的に理解してしまった。地上の騒音が、僅かながら耳に届く。

父の背広のズボンで、携帯電話がバイブ音を鳴らした。彼は慌しい動作でポケットを探る。
どうやら、父には僕の姿が見えていないようだ。僕が隣から画面を覗き込んでも、まるで無反応なのである。
新着メールが一件。母からだった。内容は、シンプルな一文。

『今から死にます』

さっきプラットホームで打っていた文章に違いなかった。

父はその文面を、何度も何度も読み直しているようだった。
それから、何を思ったのか返信ボタンを押し、文面を打ち始めた。

67 名前: ◆CtyM0huFrQmy :2009/08/22(土) 23:20:18.84 ID:3QShVMvCP
『そうか。僕もこれから死ぬ。お疲れさま。なあ、最後に聞いてくれるか。
 お前は、あの子を恨んでいると言ったな。僕もそれに同意した。確かに、あの時はそうだったのかもしれない。
 いずれお前か、或いは僕があの子を殺してしまうかもしれない……それだけは避けたかった。
 でも、その一方で僕らはあの子へ……実の息子へ復讐しようとした。
 その二つを同時に達成できるのが、あの子を残して自殺することだ。

 でもね、今考え直してみると、、どうも理由はそれだけじゃなかったような気がするんだ。
 僕らはあの子を恨むと同時に、怖がっていたんじゃないだろうか。
 僕たちの子育てに、まったく不備は無かった。万事順調だったはずだ。
 でも、あの子は道を踏み間違えた……引き篭もりになってしまった。

 そんなあの子を、僕も、お前も理解できなかった。だから恨んだけど、
 しかし、理解できないっていう怖さもあったんじゃないかな。
 だから逆の……あの子が僕らを殺す可能性も、十分考えられたし、それも避けようとした。
 ……そうは考えられないか?                                                  』

(´・ω・`)「……」

僕は隣で、彼の打つ文章を見ている。白髪の多い頭が横にある。
こんなに白髪が多かったろうか? もっとも、父の頭髪など注意深く眺めたことは無いのだが。

『夢を見る、と言ったことがあったろう。あの子を殺す夢、そしてあの子に殺される夢だ。
 ……お前も見たそうだね。それが、何よりの証拠じゃないか? 

 まあいい。全部終わったことだ。あの子がこれからどうするのか……いや、よそう。
 ともかく、ご苦労様。そしてありがとう』

72 名前: ◆CtyM0huFrQmy :2009/08/22(土) 23:25:08.77 ID:3QShVMvCP
父の指はそこで一旦止まった。それから再度動き出す。

『もっとも、お前はもういないだろうし、このメールも無意味だね。
 まったく、万事順調どころか、万事失敗ばかりだったのかもしれないよ』

父はそのメールを送信し、再び携帯をポケットに突っ込んだ。
そして眼前の空中を見遣る。どこか遠い場所を眺めている。


 リ
  リ
   リ
   リ
   リ

ふと気づくと、父はもう、屋上から転がり落ちていた。地面にぶつかり、重たい音が生々しく耳に響く。

(´・ω・`)「……」

母さんと、父さんが死んでしまった。死んでしまった。

(   )「だから言ったろう?」

どこからか、甲高い音が聞こえる……。

(   )「かわいそうに、かわいそうに……って。ケケ、ケ。ケキャキャキャキャ」

周りの景色が、笑い声の残響と一緒に、ぐちゃぐちゃに渦巻いて、あらゆる色が混ざっていく。

75 名前: ◆CtyM0huFrQmy :2009/08/22(土) 23:28:14.84 ID:3QShVMvCP
気がつくと、僕はディスプレイの前に帰還していた。
伊藤さんの最終メッセージから一時間近くが経過していると、時計が教える。
それだけの時間、僕はトリップしてしまっていたらしい。聴覚や視覚を完全に支配された上で……。

(´・ω・`)『伊藤さん』

僕はのろのろとキーボードを叩いた。まだ現状認識はできていない。
いや、そもそもする必要が無いのかもしれない。
あれらはまさに幻覚……それ以上でも以下でもないのだから。

ただ、それにしては生々しすぎるのだ……。
せめて、いつも見る夢のように、音が無ければいいのに……何もかもが現実的なのだから。

『どうしたの?』

(´・ω・`)『幻覚を見たんです。
      伊藤さんの言ったとおり、僕はもう、聴覚だけじゃなく視覚も支配されている。
      そうみたいなんです。そして、そこで、』

不思議だ。文字を打つごとに幻覚のイメージが徐々に鮮明になり、それにつれて認識が深まってしまう。

77 名前: ◆CtyM0huFrQmy :2009/08/22(土) 23:32:24.65 ID:3QShVMvCP
(´・ω・`)『母と、』

母親のちぎれた肉片。線路。駆け抜ける特急電車。こびりついた内臓と皮膚。

(´・ω・`)『父が、』

頭蓋も潰れてしまった父。メールの内容は、一字一句間違えずに暗誦できそうだった。

(´ ω `)『自殺したんです。母は電車に飛び込んで、父は飛び降り自殺……。
      そんな映像をついさっきまで見ていました』

今になって涙が溢れ出す。最も深く心に突き刺さっているのは、無論メールの内容だ。
父さんと母さんが僕を恨んでいた。そればかりか怖がってもいた。自殺そのものが僕への復讐……。

そしてもう、彼らはどこにもいない。
僕が二人に行った罪を償う暇も無く、二人とも死んだ。恨みと恐怖を胸に抱いて。

『でも、あくまでも幻覚でしょう?』

(´ ω `)『違うんです! あれは、幻覚じゃない』

まったく、孤独だ。父母に見捨てられた引き篭もりはどうすることもできやしない。
結局部屋から連れ出してほしくて……そういうのを期待して……でももう、それは未来永劫かなわない。

ならば、誰が僕を助けてくれる? 目の前の彼女以外に、いないだろう?

(´ ω `)『伊藤さん、僕は!――』

79 名前: ◆CtyM0huFrQmy :2009/08/22(土) 23:35:25.00 ID:3QShVMvCP
---5---

思えば、それは最初から恋愛感情だったのかもしれない。
男女間の感情なんて、所詮そういうものなのだろう。
ある程度の段階を踏んでしまえば全て恋愛感情と定義しても構わなくなる。
その手の類は、存外単純で、しかも安っぽい。

伊藤さんと会話する日々が楽しかった。チャットをしていても心を癒された。
大学を辞めて、引き篭もるようになった時も、僕の相談に乗ってくれて、
しかも優しくアドバイスしてくれたのは、伊藤さんに他ならなかった。

若いのに……僕よりは年上だろうけど……しっかりした女の人なのだ。

僕は、だから、伊藤さんのことが好きだ。

ネットを介した恋愛など、超絶にくだらないものだ。それは自覚している。
何せまだ顔も見合わせていないのに、そんな感情を持つなんて、まるっきりキチガイ沙汰だ。

だが現状……怪異に巻き込まれ、とても幻像とは思えない両親の死体を見てしまった今、
そのくだらない感情が爆発してしまった。

だから勢い任せで……しかもチャットでの文字表現という、愚劣な方法で……僕は彼女に告白をしたのだった。

時刻は午前三時を過ぎたところ。僕はベッドの上で天井を眺め続けている。

告白した、という事実ははっきり覚えている。しかし、どんな文面で伝えたのか。
そして最も肝心な、返事は如何なるものだったのか、ということを全く覚えていない。
躁病的、発作的に告白したのは良いものの、そのままパソコンの電源を落としてしまったような気がする。
現に、いつの間にかディスプレイは光を消していた。

80 名前: ◆CtyM0huFrQmy :2009/08/22(土) 23:38:21.57 ID:3QShVMvCP
考えるべき議題はもう一つあった。
結構前から気になっていたのだが、夢の種別について、だ。

最近僕が見る夢(あるいは幻像)は二種類に大別することができる。
それは実に単純な区別の仕方で……つまり、音があるか、無いか、だ。

音があったのは、イヤホンの怪異に取り付かれた当初の、廃墟を歩く幻像、
そして両親がそれぞれ違ったシチュエーションで自殺する幻像……。
もうひとつ、これは映像が無く音だけだが、血まみれの赤子に囁かれる幻聴もあった。

逆に音が無いのは、僕が両親を殺す、或いは両親に殺される夢と、見知らぬ女性が赤子を絞殺する夢。

この二つの間にある、違いはなんだろう? 
ただ単純に、僕の感覚が気まぐれに敏感、もしくは鈍感だったのか。それとも、他に何か特殊な原因があるのか。

謎がまた一つ増えて、これで七つだ。解ける気配は少しも無く、ただ山積していく。
大体解きようが無いのだ。相変わらずインターネットには繋がらないし、ドアが開くことも無い。
私室という六畳そこらの行動範囲で一体何ができよう。

笑う男のペンは止まる気配が全くない。
書き続けてもうすぐ二十四時間を超える頃合いだというのに、執筆のペースは当初と同じ、一定を保っていた。
カツカツカツと木の机をたたく音が寂しく暗黒に木魂している。

83 名前: ◆CtyM0huFrQmy :2009/08/22(土) 23:42:50.50 ID:3QShVMvCP
(´・ω・`)「順調なのかい」

寝返りを打って、僕は訊ねた。

( ^ω^)「もうす、すぐお、終わる。お……」

呂律の回らない舌で彼は答えた。
相当疲労が溜まっているのかもしれない、痙攣して跳ねる利き腕に、もう一方の拳を叩きつけている。

彼はかの陳情書を書き上げて……それから、どうするつもりなのだろう? 
陳情書というのは、ただ書いただけでは意味を持たない。然るべき機関へ提出しなければならないのだ。
だが現在、この部屋は密閉されていて、外に出る手段はない。

或いは、笑う男が陳情書を書き終えるのと同時に、何かが動き出すのかもしれない。
彼は誰かに書かされているのだと言っていた。つまり代筆をしているのだ。
黒幕は別の場所で彼を動かしていて、そして完成したそれを目的地へと運ばせるだろう。

加えて、僕自身、陳情書に署名をするという作業が残っている。
……別に、心構えを必要とする行為ではない。やろうと思えば、今すぐにでもできるのだ。

ただ、僕にだって不満がある。僕の署名を求めているのも、笑う男ではなく、黒幕なのだ。
だったら、そいつが僕に対して、何か説明のひとつでもする義務があろう。

84 名前: ◆CtyM0huFrQmy :2009/08/22(土) 23:46:00.25 ID:3QShVMvCP
僕はイヤホンに手を触れた。その時ふと、両親のことを思い浮かべた。

彼らについて、不思議と苦慮したり後悔する情念がわきあがってこない。
自殺の幻像を否定できたというわけではない。現に、僕の中で彼らは、あの通りの方法で死んでしまっている。

では、何故だろう……直後に流した発作的な涙以降、何も思うことがないのだ。後悔も悲観もしない。
それどころか、両親はすでに両親でなく、「彼ら」という代名詞で収まる存在になってしまっている。

もしかして、僕は、本当に彼らの死を望んでいたのだろうか……?
そしてそれこそが、動物的本能で怨念を感じ取った両親の、自殺の直接的原因だとしたら……?

僕はこめかみのあたりに掌を打ちつけ、想像の進行を強引に断ち切った。

それが事実であろうと、そうでなかろうと、悲観的になるのは良くないことだ。
実際、両親が死んだというのはまだ事実ではない……
そう、愚かな猫の論理に従うまでもなく、部屋を出て確かめるまでは、どちらの可能性も等しく存在し続けている。

だから僕が、いの一番に考えなければならないのは、この部屋からの脱出方法……。
それが笑う男の行動に関係しているのならば、来るべき時まで待機……無心での、待機が最善だ。
例えそれが、艱難辛苦を極めるとしても。



だが、そんな僕の決意を嘲笑するかのように、耳の奥で小さなノイズが鳴った。

85 名前: ◆CtyM0huFrQmy :2009/08/22(土) 23:51:11.34 ID:3QShVMvCP
たぶん、普段ならば気づかなかったであろうような、かすかなノイズ。プツッという電波が途切れたような音。
そんな小さな、羽音にも満たないノイズで、僕の身体は大きく跳ね上がった。
プツッ。ただそれだけなのに、何故か強大で黒い、不可解な存在を感じたのだ。

(´・ω・`)「……」

上体を起こして音の源を探す。
いつの間にか浮かんでいた身体中の汗が、重力に従って垂れ落ちていく。

じっくりと首を動かしていくと、それまで一心不乱に机に齧り付いていた笑う男の視線が、
あらぬ方向で固定されているのが目に入った。
彼の視線を追うと、そこに薄ぼんやりと光るテレビがある。

(´・ω・`)「……テレビ?」

何故テレビがついているんだ?
近頃まったく使用されず、無用の長物となっていたテレビが、
番組の放送されていないような時間帯に光を放っている……。

(´・ω・`)「お前が付けたのか?」

( ^ω^)「……」

笑う男は答えず、画面を食い入るように見つめている。

87 名前: ◆CtyM0huFrQmy :2009/08/22(土) 23:55:09.18 ID:3QShVMvCP
画面は、ノイズ混じりのモノクロ風景を映し出していた。まるで、大昔の記録映像のようだ。
画面の上半分が灰色の、霞がかった空、下半分が、黒っぽい地面で固定されている。

『……次のニュースです……』

抑揚のないアナウンサーの音声が挿入される。それもまた、戦時中じみた、質の悪い音声だった。

『……イヤホンの子どもたちによる陳情団がキョウ、首都に向かって出発しました。
 カレらは道中でナカマを増やし、最終的には数万人のギョウレツになる予定です』

画面の奥に小さい黒点が現れ、それが次第に近づいてくる。
それはイヤホンを耳につけた子どもたちの行進だ。

手が地面に触れるほどに腕をたらし、前傾姿勢で歩いている。
どこにも繋がっていないイヤホンのコードが膝の辺りで左右に揺れている。

行列の先頭が画面の手前を通り過ぎた。全体的に黒ずんだ体。

どこかで見たことのあるような出で立ちだ……そう、まるで原爆投下後に、
水を求めてさ迷い歩く人々のような……皮膚を引きずり、這いずるような足取り。
行進は二列縦隊の形で続いており、奥の奥まで途切れている気配がない。

『コレに伴い、ワレワレの国家はイヤホンの子どもたちに向かい、カクバクダンの投下を行いました。
 しかし彼らは死にませんでした。その後も様々なカガクヘイキによる攻撃を行いましたが、
 彼らは死にませんでした。なぜなら、彼らは強いからです』

88 名前: ◆CtyM0huFrQmy :2009/08/22(土) 23:58:40.34 ID:3QShVMvCP
突然、一人の子どもの真っ黒な顔が画面いっぱいに映し出された。
その顔面は、爆風か放射能かで無残に溶けていた。
ところどころの皮膚が剥がれ、ピンク色の肉がむき出しになっている。鼻と片方の耳は、ちぎれてなくなっていた。

口を閉じることができないらしく、黒いよだれが口の端から垂れ落ちている。
目は落ち窪み、空洞のように見えた。頭髪はほとんど残っておらず、男か女かの判別もつかない。
画面の向こうから、腐臭が漂ってきそうだ。僕は、食道をせり上がってくる吐瀉物を必死に飲み込んだ。

不意に、濡れた手が僕の頬を触れた。頬やもみ上げの辺りに、何か生温かいものを塗りたくられている。
だが僕は首を動かすことができない。僕の視線や、意識は、モノクロ画面に飲み込まれてしまっている。

画面に映っている子どもはしばらく何もしゃべらない。
さも、僕の顔を見よ、とでも言うようにカメラを凝視し続けていた。

『子どもたちのヒトリに話を伺いました』

アナウンサーの声に呼応して、子どもはねばついた唇を上下に思い切り開く。
口の端が裂けたが、出血はしなかった。

(■■)「&オ゙"ウ)ア=ア、$ア$ア゙、#イ゙=オ"エ=オ!オ'イ$オ'エ$エ&オ#イ!イ$ア゙"エ%ア=オ$ア゙。
     &オ"ア%イ=ア%ア%イ'オ、!イ)ア%ア!イ(オ。#オ!ウ!オ#イ!エ)ア)エ$エ!イ)ウ"ア)ア%エ」

91 名前: ◆CtyM0huFrQmy :2009/08/23(日) 00:01:48.42 ID:UJr9dGdmP
それは、痰が喉の奥に詰まっているような、禍々しい声だった。
とても子どもの発するような音とは思えず、いや、そもそも人間の声ではない。
腹から絞り出すような、声にならない音。酷いノイズにも似た、狂犬の断末魔のような奥底からの呻き。

しかし、彼はそれで、言語を発しているつもりらしかった。

(■■)「$ア゙"ア)ア、"オ!ウ"エ゙"イ#イ%ア!イ$エ゙&オ#イ!イ。#オ'オ#オ'オ、&オ゙"ウ)ア%オ%ア%イ"ア゙、!イ"エ%ア!イ=オ$ア゙?
     $ア$ア゙、&イ$オ)イ&イ$オ)イ、$イ=オ#イ゙(ォ!ウ#イ(ォ!オ'オ$ゥ$エ、!ア)ウ!イ$エ!イ)ウ$ア゙"エ#イ(ァ%ア!イ"ア」

『……このように、彼らは一人ひとり陳情書を持っています。
 そして彼が今申しましたように、そのうちのイチマイでも、届けばよいのだそうです……』

映像は再び、行列の風景に切り替わる。イヤホンをはめた子どもたちが、瓦礫を踏みつけて進んでいる。
……その風景には、嫌でも見覚えがあった。最初の幻像そっくりの景色……。
そうか、彼処は、爆弾が投下された後の場所だったのか。

その時、突然カメラが、捻転するように奇妙な動きをした。白黒のブレた映像が上下左右へ飛び交う。

やがて固定映像に戻ったとき、そこに映っていたのは一人の赤ん坊だった。
画面いっぱいに映ったその赤ん坊は、鼻を膨らませて笑っている。無邪気な姿だった。
それまでの映像とは打って変わった、癒されるような笑み……。
モノクロに浮かぶ影のせいで、彫りが深い顔面に見える。

『……では、イヤホンの子どもたちを導いている彼の、セイメイを読み上げます』

アナウンサーの声が覆い被さる。彼ははっきりと、「導いている」と言ったのだ。
僕はハッとした。イメージに現れた赤ん坊は……こいつではなかったのか。
そういえば、言いようもない、寒気のような既視感が全身を包んでいる。

こんな無邪気な、ごく普通の赤ん坊が……。

95 名前: ◆CtyM0huFrQmy :2009/08/23(日) 00:06:25.19 ID:UJr9dGdmP
アナウンサーが、彼の声明文らしきものを読み始めた。

『ぼくは、むてきだが、一つだけ弱点がある。ぼくは、つんぼだ。
 いずれ、母親に殺されるうんめいだった。それをぼくはしっている。
 ぼくには、みらいがみえていた。
 母親は、ぼくのうんめいを、勝手になげいて、ぼくの首をしめるつもりだった』

僕の脳裏を一枚の場面が巡った。いつか見た夢……無音の夢。
どこかの見知らぬ女性が、赤ん坊を絞殺するシーン。

『だから、ぼくは、たちあがった。ぼくは、支配者だ。つんぼが、せかいを、せいふくするのだ。
 つんぼのしゃかい。つんぼのげんご。つんぼのこえで、せかいを、しはいするのだ』

たどたどしいアナウンサーの口調は、わざわざ芝居がけているのだろうか。
それとも、いつの間にか赤ん坊の声に切り替わっていたのだろうか。イヤホンの聴覚では判断できない。

ともかくも、画面上の笑顔の赤ん坊に変化はない。
彼はイヤホンをしていない。その必要が無い、ということだろうか。

『彼らは』アナウンサーの口調が元に戻った。

『……彼らは、早ければ十日後にはシュトに到着、政府機関に陳情書を提出するヨテイだそうです。
 誰にも、彼らを妨げることはできないでしょう。彼らは強いのです。
 イヤホンの子どもたちは強いのです。イヤホンの子どもたち万歳。万歳。万歳。万歳……』

そのままフェードアウトしていくかに思われた映像が、
直後、焼け爛れた子どもの顔を再びズームアップした。
彼は、黒い糸が何本も引いている口をこじあけて言った。

(■■)「待っているよ」

97 名前: ◆CtyM0huFrQmy :2009/08/23(日) 00:09:34.30 ID:UJr9dGdmP
独りでに電源が落ちたテレビ画面を、僕は眺め続けていた。腹の底から笑みがこみ上げてくる。

(´・ω・`)「……フフッ」

口の端から空気が漏れた。それは、今にも爆笑の転移しそうだった。

謎の一部は氷解した。イヤホンの子どもたちとは……陳情書とは?
その答えは存外シンプルだった。つまり、彼らは新人類として世界を征服しようとしているのであり、
陳情書は恐らく……彼らの宣戦布告や、人権の獲得などの要望を含んでいるのだろう。

そして彼ら(或いは僕ら)イヤホンの子どもたちの頂上に立っているのが、
さっきの赤ん坊……イメージに現れた血まみれの彼、なのだ。

彼は耳が聞こえないらしい。それが理由で殺される、という「未来」を見たのだという。
その未来を現実のものにさせないためにも……赤ん坊は、その非人間的能力を発揮して、
イヤホンの子どもたちを指揮しているのだ。

……どうだ、君には信じられるか? 僕は虚空に向かって問うてみた。
信じられるはずがない。一部僕の憶測が交じっている妄想、非現実的な理屈……笑える。失笑に相応しい。
だが、ならば何故僕の耳はイヤホンなしで生きていけなくなった? 陳情書を書いている人間の正体は?

……そうだ。僕は一つ、重大な見落としをしていた。

なぜ、陳情書を書く人物がこの部屋にやってきたんだ?
彼の役目は重大だ。彼の仕事なしには、行進は意味を成さない。
そんな人物が、どうして黒幕の膝元……もっと安全な場所ではなく、この部屋にやってきたのか。

99 名前: ◆CtyM0huFrQmy :2009/08/23(日) 00:13:11.83 ID:UJr9dGdmP
そう言えば、行列の彼らはすでに陳情書を持っていた。
おかしなことだ。陳情書はまだ、僕のすぐそばで執筆中のはずである。
現時点で、イヤホンの子どもたちに、陳情書のコピーが配られているはずがないのである。

ならば、どう考えられる? 僕は、未来を、見たのか?

「だから、まっているのさ」

耳元で声がし、背中を無数の小さな虫が這いまわる。濡れた手で頬をなでられていたことを、今更思い出した。

「おまえは、ちんじょうしょを、はこぶ、やくめを、もっている。
 イヤホンの子どもたちは、おまえを、まっている」

甲高い声がそう語る。その正体は、さっきまで画面に表れていた赤ん坊に違いなかった。
その彼が、僕の肩の後ろあたりで浮かび、僕に語りかけているのだ。
だが、僕はそれを確認することができない。首が回らないから、気配を感じ取ることしかできない。

僕は、感覚の支配が一段と進行しているのを実感した。
視覚や触覚の支配は、これまで夢や幻像の中でしか起きなかった。
だから僕はこれまで、現実の世界に対し、ある程度の冷静を保つことができていた。

今、現実と非現実の間にあった膜が、いとも簡単に破られた。
とすれば、僕は一体どうすればいいのだろう?

赤ん坊の気配が消えた。頬に手を触れてみると、赤色の混じった、粘液のようなものが指先に付着した。
精液や、羊水や、血液などを混ぜ合わせたような、不純な液体のようだ。

とりあえず、僕は大きく口をあけて、笑い声をあげた。

100 名前: ◆CtyM0huFrQmy :2009/08/23(日) 00:16:37.13 ID:UJr9dGdmP
---6---

それからの僕に襲い掛かった出来事は、残酷極まりないものだった。

テレビの映像は、今までになく衝撃的だった。僕は当然、これから何か、目新しい、
それもこの問題全体にかかわるような何かが起きるはずだと信じてやまなかったのである。

ところが、何も起きなかった。
驚いたことに、僕を待ち受けていたのは、待機、沈黙、そして静寂だったのだ。
悠久とも思える長い永い時間を、僕は閉ざされた部屋の中で過ごす羽目になったのである。

初めは、何かの冗談だと思った。それはそうだ、ここから何も進展がないなんてことがあるはずない。
この問題の核にいる張本人が、僕が役目を背負う人間だと認定したのだから。

だが、いくらドアを叩いても、殴っても、蹴り飛ばしても、諦めて笑っても、笑っても、笑っても、何も起きなかった。

どれだけの時間を無駄にしているか、もうわからない。
窓外の景色は、いつの間にか夜間の風景のままで止まってしまった。もう音がない。

パソコンをつけても相変わらずインターネットには繋がらない。
内蔵時計は9999を表示してカウントをやめている。
いつまで経っても伊藤さんはログインしない。とすれば、他にできることは、何もないのだ。

最も、笑う男には若干の進展があったそうである。
彼は遂に陳情書を完成に持ち込み、現在推敲作業中だ。

( ^ω^)「ここここおお、これが、いいいいちち、ち、ちっばんつか、れえええええぅぅぅぅぅ」

彼の言語能力は、もうほとんど退行してしまっていた。それでも笑顔だけは崩さない。
今笑顔をやめれば、表情筋がバリバリと音をたてて剥がれおちるのではないかと思えた。

102 名前: ◆CtyM0huFrQmy :2009/08/23(日) 00:20:36.52 ID:UJr9dGdmP
便意も飢餓も睡眠欲も、いつの間にか無くなっていた。

ベッドに寝転がって目を閉じても眠りは誘いに来ない。忌々しい夢を見ることもなくなった。
その実、聴覚を除けば、僕の体には一切の異変が起きなくなったのだ。
監獄のような時間を、僕は覚醒したまま思考することで過ごさざるを得なくなったのである。

電灯の明かりがやけに暗く感じられる部屋の窓べりで、僕は夜景を眺めている。
ここから見える景色の範囲に人はいない。何かが動く気配もない。時間は止まってしまったのだろうか? 
そうだとすれば、何か意図があるのだろうか?

考えていても仕方がない。今はただ、笑う男の作業が終わるのを待つしかない。
僕が協力を申し出たところで、彼はかたくなに拒否するに決まっている……。

たから僕は、全く無意味に、パソコンの電源をつけて伊藤さんを待ちながら、ディスプレイを引っ掻いたり、
イヤホンのコードを指に絡ませたり、こうして夜景を眺めていることぐらいしか出来ない。

伊藤さんは、ログインしてくれるだろうか……そんな一抹の不安がよぎる。
すっかり忘れかけていたが、僕は伊藤さんに告白したのだ。
もしかしたら、気持ち悪がってもう二度と会ってくれないかもしれない。

だが、僕には伝えたいことがまだ山ほどある。
唐突な告白を謝罪しなければならないだろうし、現状も話したい。
伊藤さんは、きっと僕に知恵を貸してくれるはずだ。

……正直なところ、それだけが、僕の正気を保つ壁なのだ。

103 名前: ◆CtyM0huFrQmy :2009/08/23(日) 00:23:26.62 ID:UJr9dGdmP
時間は過ぎて行った。体感では、だいたい数日。
もっとも、何か展開が起きるまでの時間経過など、無為でしかないとも思えるが。

進展は、やはり伊藤さんのログインによって発生したのだった。
相変わらず他のメンバーが全員オフラインである中に、伊藤さんのログインマークだけが点灯している。

(´・ω・`)「伊藤さん……」

僕はそう呟いて、我を忘れたような調子で通話開始ボタンを押していた。
笑う男に聞かれたって構いやしない、どうせ、聞いても反応は起こさないだろう。

コードをイヤホンジャックに接続し、しばらく待つ。
伊藤さんはなかなか出なかった。コール音が、空しく耳の中で鳴り続ける。

しかし、僕にはある種の自信があった。伊藤さんは電話に出る、と。
ログインしたということは、僕に通話と弁明のチャンスを与えてくれたのと同じだ、と。

『……もしもし』

意気消沈したような声が聞こえてきた。
それは紛れもなく伊藤さんのもので、僕は思わず歓喜の声を上げた。

(´・ω・`)「伊藤さん……こ、こんばんは」

『こんばんはって、今は昼間よ』

(´・ω・`)「僕のところは夜なんです……ねえ、伊藤さん、聞いてください」

104 名前: ◆CtyM0huFrQmy :2009/08/23(日) 00:25:15.18 ID:UJr9dGdmP
そして、僕は語るつもりだった。まずは謝罪の弁を。そして、告白の真意を。
それから、現在の状況、イヤホンの子どもたちに関すること……話すことは山のように積み上がっている。

『……ちょっと待って、しょぼんくん』

だが、僕の口述は、伊藤さんの一言によって堰きとめられた。

『分かるでしょう? 今は、それどころじゃないわ』

(´・ω・`)「……え?」

僕は頓狂な声で聞き返していた。
イヤホンの向こうではしばしの沈黙。やがて伊藤さんは、やつれた声を出した。

『戦争が始まったじゃない。あなたの、作り話を聞いている暇なんて、どこにもないのよ』

……今度は、僕が沈黙をする番だった。
戦争? いったい何のことだ? 作り話? 僕の話が? え? 
伊藤さんは何を言ってるんだ? ? ? ?

『……もしかして、知らないの? なら教えてあげるわ』

(;´・ω・`)「ちょ、伊藤さ」

『イヤホンみたいなのをぶら下げた子どもがね、あちこちで現れたの。
 そして、真っ直ぐ首都に向かってる。誰の力でも止められないの。
 止めようとするものを、子どもたちは殺している。しかも彼ら、死なないのよ。ついに軍隊が出動したって』

(;´・ω・`)「……」

106 名前: ◆CtyM0huFrQmy :2009/08/23(日) 00:31:09.76 ID:UJr9dGdmP
『でも、彼らは誰にも止められないの。殺しても死なないんだから。
 今、外では戦争をやってるのよ。静かな子どもたちと、大の大人がね』

テレビの映像通りだ……と、頭の中の冷静な一部分が思った。遂に子どもたちが行進を始めたのだ。
首都を目指し、真っ直ぐに。どれだけの攻撃を受けても死ぬことなく……。

だが、僕の大部分の熱情は、違うところに向いていた。

(;´・ω・`)「伊藤さん……作り話って、どういう」

盛大な溜息が、僕の鼓膜を揺さぶった。伊藤さんは、本当に、呆れ返っているらしかった。

『もうすぐ、私のところにも子どもたちが来るわ。ここが戦場になるかもしれない。
 そんな時にね、きみの作った、つまらないお話を聞いていられるわけがないでしょう?』

(;´ ω `)「……」

脳味噌を、脊髄を、握り潰されたかのような感覚が一瞬僕を包んだ。
全ての感覚が、どこかへ浮遊し消えてしまった。

僕は、根本的な勘違いをしていた。伊藤さんは最初から、僕の話など信用していなかった。

……そうか。チャットでの冷徹な反応は、そういうわけだったのか……。
でも、でも、違う、違う!

108 名前: ◆CtyM0huFrQmy :2009/08/23(日) 00:36:44.78 ID:UJr9dGdmP
(;´・ω・`)「違うんです、伊藤さん! 僕は作り話なんか……」

僕は、必死で弁解しようとした、ともかく、信用してほしかった。僕は嘘なんか付いていない。
全てすべて本当のことなんだ。伊藤さんにさえ信じてもらえなかったら、僕は誰の手にすがればいいんだ!

しかし、その必死さが逆に、嘘っぽさを増大させるような気もして、僕は言葉の途中で台詞を失ってしまった。

『あのね、しょぼんくん』

伊藤さんの声は、僕の狂態をあざけるように穏やかだった。

『きみの気持ちは分かるし、告白してくれることはうれしかった。
 その時、きみの言ってることが、ただ単に病気とかじゃなく、私の気を引こうとしているんだと気づいたの。
 なんというか、やっぱり子供っぽいなあ、と思ったわ。でも、そういうの嫌いじゃない。
 さっきも言った通り、嬉しかったというか、迷惑とか、そういう風には思わなかったわ』

(;´・ω・`)「違うんです、伊藤さん、聞いてください!」

『でもね、告白されてもどうしようもないの、私ね……』

(;´・ω・`)「伊藤さん!」



『……妊娠してるの』

110 名前: ◆CtyM0huFrQmy :2009/08/23(日) 00:40:11.67 ID:UJr9dGdmP
……今度こそ、本当に、僕は言葉を失ってしまった。
見開いた両目にぼやけたディスプレイが映っている。
その瞬間、僕はあらゆるものを見失ってしまったかのような感覚に陥った。

『もうすぐ九か月……出産が近いわ。今まで伝えなかった私が悪いのかもしれない。
 でもね、私が伝えなかったのは、男女とか、そういう関係で考えてほしくなかったからなの。
 でも、仕方ないわね……いずれこうなっちゃうことは……』

無意識のようなものが、僕の中で大きく盛り上がった。その中から次々に様々な観念が噴き出してくる。
後悔やら、悲嘆やら、反省やら、あらゆる感情が暴発して飛び回り、やがて溶けていった。

どうしてその可能性を最初に考えなかったのだろう……。後悔が悲鳴を上げている。
見ず知らずの、僕より年上であろう女性が、すでに誰かと交際している、
或いは結婚をして子どもを授かっていると、何故推測しなかったのだろう。

笑ってしまうことに、僕はその見込みを、微塵たりとも考慮していなかったのである。
客観的に見れば、まるで滑稽、そして不自然だ。だが、僕には理由がはっきりと分かる。

即ち僕が、コミュニケーション能力の無い、引きこもりだからだ。
伊藤さんの存在を、現実的でなく、仮想的にしか捉えていなかったのだ。

(´ ω `)「……ははっぁ」

僕は小刻みに唇を揺らして笑った。口の奥からいくらでも笑い声が出てくる。
止め方が分からないから、そのままにしておいた。

(´ ω `)「っははははぁぁっははははははっはっはっはっはっはっは……」

112 名前: ◆CtyM0huFrQmy :2009/08/23(日) 00:43:55.78 ID:UJr9dGdmP
伊藤さんはイヤホンの向こうで黙りこくっている。
彼女に抱いていたイメージが、今や頭の何処を探しても見つからなくなっていた。
口火を切るとのは、僕だ。それしかありえない。僕は笑うのをやめた。

(´・ω・`)「すみませんでした、伊藤さん」

存外明るい声が出た。たぶん、これまでで一番陽気な声じゃないだろうか。

(´・ω・`)「なんかこう……勝手に暴走してたみたいです。深夜のテンションっていうか……その、済みませんでした」

『……よかった、分かってくれて』

(´・ω・`)「あの話も、作り話だったんですよ。ええ。そうに決まってるじゃないですか」

もう、信じて貰える展望は皆無だ。僕は口べただから、彼女を信じ込ませるほどの説得力などあるはずがない。
大体彼女は、現実に存在する『イヤホンの子どもたち』と、僕の語った話を繋ぎ合わせることすらしていないのだ。

それだけ、不信感が募っているということだ。
信じてもらう試みよりも僕は、彼女に愛想を尽かされないための自己防衛を選択した。

『別にね、私はきみとの縁を切ろうとしているわけじゃないの。
 ただね、なんというか……もっと現実を見てほしかっただけなの』

(´ ω・`)「迷惑掛けてごめんなさい。若気の至りですよね、若気の。ははははは」

僕は水気の無い笑い声さんざ続けたあと、ふと背後の雰囲気が気になって振り返った。

( ^ω^)「……」

笑う男が、じっとこちらを見つめている。その笑みが、若干痙攣していた。

115 名前: ◆CtyM0huFrQmy :2009/08/23(日) 00:56:13.42 ID:UJr9dGdmP
『それじゃあ……私はそろそろ寝るわね。さっきから、おなかが変な感じに動いているのよ』

(´・ω・`)「あ、はい……そ、そうですね。はは。お身体を大切にしないとですよね」

『それに、もしかしたらそろそろ避難しないといけなくなるかもしれないわ。ここも戦場になるかもしれないんだって。
 でも、あの子どもたちは他人の危害を加えたりはしないそうなんだけどね……
 むしろ、なんで執拗に攻撃しようとするのか、そっちのほうが不思議だわ……』

(´・ω・`)「……」

笑う男が、席を立ってこちらに近づいてきた。さすがに通話はまずかったのだろうか? 
それにしても彼は、尋常ならざる表情をしている。笑顔には違いないが、それを必死に崩そうとしているような、
何か別の、怨恨こもった表情を作ろうとしているような。

『それじゃあ、おやすみ……しょぼんくん』

伊藤さんの声が、甘美に響く。それまでで最高の悲傷が押し寄せてきて、僕は思わず泣き出しそうになった。

(´・ω・`)「はい……おやすみなさい、伊藤さん……」

そうして、僕が彼女の名前を呼んだ瞬間だった。僕の視界は、不幸にも再び、暗転したのである。

それは、久々に訪れた幻像への誘いだった。何も今来なくてもいいのに! 
そう思ったものの、この誘いは同時に、進展への予兆でもあるのだ。
不安はあるものの、僅かながら期待も含んでいた。

唯一の気がかりは、僕の背後で生ぬるい、性的興奮を起こしているような吐息を吹きかけてくる、笑う男だけだ。

117 名前: ◆CtyM0huFrQmy :2009/08/23(日) 01:00:08.21 ID:UJr9dGdmP
開けた視界で、僕は誰かの後姿を眺めていた。髪の長い女性である。
彼女はヘッドセットをつけ、回転椅子に座ってパソコンのディスプレイに向かっていた。

誰だ、この人? 
その疑問への解答は、イヤホンの奥から聞こえてきた二重音声によって明かされた。

(  *川「『どうしたの? しょぼんくん』」

その声は、デジタル音声と生声の、二つが重なって鼓膜に届いた。
僕は眼を見開いて目の前の女性の後頭部を眺めた。

この人が、伊藤さんだ……。
後ろからなので顔は分からないが、長い髪と小柄な体格……
そして、妊娠をはっきりと示すように、腹部は豊満に膨らんでいる。

僕は体を動かし、彼女の肩をたたくか、あるいは彼女の顔を眺めるために動こうとしたが、
そう都合よくはいかない。身体は背後でしっかり固定され、眼球がわずかに左右へ動かせるのみである。

今回の幻像……正確には、実際にある場所へ移動しているので幻像ではないが……が今までと違うのは、
視界は幻像のみであるものの、聴覚には幻像と現実の両方の音声が届くという点だ。
だから、相変わらず笑う男の吐息は聞こえてきて、耳の中が物凄く気持ち悪いことになっている。

しかし、何故伊藤さんのところに現われてしまったのだろう? 
これまでに僕が現れた場所は、常に僕自身、あるいは「イヤホンの子どもたち」に関係するところだった。
今回の幻像が後者に関わっているのだとすれば、伊藤さんが「イヤホンの子どもたち」の関係者ということになる。

そして今回は、無声ではなく、音は有る。


118 名前: ◆CtyM0huFrQmy :2009/08/23(日) 01:03:24.33 ID:UJr9dGdmP
(  *川「『……ッ』」

突然、伊藤さんの身体が前に傾いた。吐瀉するような咳を吐き、両手で腹を押さえつけている。

(;´・ω・`)「伊藤さん!?」

僕は叫んだが、この場にマイクはない。僕の声は、彼女に届かないのだ。

頭をキーボードに叩きつけ、キーが二、三個吹き飛んでいく。
何度か咳きこむと、そのうち彼女の口から血飛沫が散った。

(  *川「『ぁ、ぁ……ぁぁぁああああぁあああぁあ゛あ゛あ゛あ゛あ゛あ゛ア゛ア゛ア゛ア゛ア゛ア゛!!!!!』」

彼女の腹部が、波打つように胎動している。中で何者かが、激しく動き回っているのだ。
いや、何者か、という表現は正しくない……胎児が、母体を破壊するほどに暴れまわっているのだ。
その映像を僕は、拘束器具をとりつけられたギロチン台の死刑囚みたいに、ただ見つめていることしか出来ない。

(  *川「『ア゛ア゛ア゛ア゛ア゛ア゛――――――!!』」

突然、彼女の身体は弾かれたように椅子から転がり落ちた。
そして床の上で、口から赤黒い血をまき散らしながらのたうち回っている。

まるで殺虫剤を食らったゴキブリのようだ、と僕は思った。

不思議なぐらい、僕はその光景を冷静に眺めていることができた。
やはり、僕自身、自覚以上に屑なのかもしれない。
彼女を助けようとも思わないし、可哀そうだとすら思えないのだ。

理由ははっきりしている、彼女が妊娠していると、好きな男がいるとわかったからだ。
非処女は死ねばいい、と僕は小さくつぶやいた。あ、きちがいだ、と別の僕が言った。

119 名前: ◆CtyM0huFrQmy :2009/08/23(日) 01:06:37.01 ID:UJr9dGdmP
バリッ               メリッ
         ゴリッ
                            ズルズルズルッ


突然伊藤さんの腹の奥で音がしたかと思うと、彼女の着ているマタニティウェアが横に裂けた。
避けたのはそれだけでなく、アンダーウェアも破れ、その下にある血管の浮いた白い腹がむき出しになった。
そして、その腹部さえも今、鈍い音を奥底のほうからたてながら、引き裂かれようとしていた。

仰向けで動かなくなった伊藤さんは、もう意識を失っている。もしかしたら死んでいるのかもしれない。
その顔を見て僕はハッとした。いつかみたイメージで、赤ん坊を絞殺しようとしていた女性……
その人と、伊藤さんはまるでそっくりなのだ。

いや、そっくりではなく、同一人物なのだ。ならば、今から彼女の腹を破って出てくるのは……奴しかいない。

僕は考え違いをしていた。最初から、逆に考えるべきだったのだ。
すなわち、「何故他の皆はログインしないのだろうか……?」ではなく、
「何故伊藤さんだけがログインしているのだろうか……?」と。

その答えは今はっきりと明示された。伊藤さんは関係者……
それどころか、イヤホンの子どもたちの一連の問題を作り上げた張本人といっても過言ではなかったのだ。

臍を中心に細く赤い亀裂が縦横に走る。一瞬時間が止まったかのような静寂を覚えた。
そして次の瞬間、彼女の腹は、血液や肉片や白い脂肪を吹き上げながら、一気にこじ開けられた。

その中から一つの物体が臍の緒を食い破り、肉片や臓器をかき分けて、外で出ようともがいていた。
それは紛れもなく嬰児だ。状況が状況でなければ、抱き上げて頬ずりの一つでもしたくなるだろう。
肉と肉の間から頭だけ抜け出した嬰児は、僕を見てニヤリと笑い、そして歯の生えそろった口を開いて言った。

(   )「久しぶり」

120 名前: ◆CtyM0huFrQmy :2009/08/23(日) 01:09:37.50 ID:UJr9dGdmP
血と羊水にまみれてドロドロになったその顔は、イメージに出てきた新生児そのものだ。
彼がこの一連の流れの黒幕であり、そして非人間的超能力の持ち主なのである。

(´・ω・`)「……きみが、僕らを操っているのか。それも、今までは、彼女のおなかの中から」

(   )「感謝しているよ、何せ手足になって働いてくれたんだから」

(´・ω・`)「どうして僕なんだ? なぜ、僕を選んだ」

(   )「……母親と仲がいい、からだ。ゲスだと思うがね、別に父親がいるってのに」

(´・ω・`)「父親……」

(   )「お前もよく知っている奴さ」

(´・ω・`)「え?」

彼は未発達の両腕で肉を押さえ、全身を外界へ露わにした。
「なんだ、気づいていなかったのか」と、嘲るような口調で言いながら。

(   )「お前の部屋に居着いてい奴がいるだろう? 
     あいつの精子と、この女の卵子が混ぜ合わさって、俺ができたのさ」

……ああ、全てが繋がった。笑う男の正体も、僕の部屋にやってきた理由も、何もかも……。
インターネット通話という間柄だから全貌が見えていなかっただけのことだ。
僕ら三人は、最初から関係していたんだ……。

(   )「それにしても、似ていると思わないか? 互いに、未来を変えなきゃ殺される者同士だったんだから……」

123 名前: ◆CtyM0huFrQmy :2009/08/23(日) 01:14:54.79 ID:UJr9dGdmP
半端な長さの臍の緒を引きずりながら、彼は母体から完全に分離した。
後に残るのは伊藤さんの、惨殺されたかのような死体。
実際、惨殺といっても過言ではないだろう。胎児に、内部から殺されたのだ。

訊きたいことは、まだまだ沢山あった。
陳情書をわざわざ持っていく意味だとか(彼ほどの能力があれば要らないのではないのか?)、
部屋に閉じ込めた理由だとか、こんな風に旧人類を蹂躙して、新人類としてのし上がろうとするのは何故か、など。

だが、それらを訊く意味はないように思えた。訊いたところで、僕にはもはや、抗う権利も意志も能力もないのだ。

「さあ、お前の見る幻像はこれで最後だ。あとは、行列の先頭で行進すればいい」

(´・ω・`)「最後に一つだけ、聞かせてほしい」

一つ、どうしても気になる疑問があった。

(´・ω・`)「耳が聞こえないはずなのに、どうして僕と会話してるんだ?」

(   )「……」

新生児は顔をくしゃりと歪めて、笑った。

(   )「つんぼの社会、つんぼの言語……お前、今自分が喋っている言葉が人間の言葉だと思ってるのか?」

問い返そうとする前に、感覚が遠ざかって行った。消えていく。現実世界へ回帰しようとしている。
最後に僕は、屍となった伊藤さんの顔を見遣った。見れば見るほど、滑稽で、不細工な顔面だ。
よかったよかった。本当によかった。こんなブスとの恋愛が成立しなくて、本当に……。

(´ ω `)「……」

124 名前: ◆CtyM0huFrQmy :2009/08/23(日) 01:19:49.22 ID:UJr9dGdmP
---7---

現実世界に帰ると僕は、一目散にベッドへ潜り込み、そして惰眠を貪った。すべてが夢であればいいと思った。
「イヤホンの子どもたち」のすべてが……それだけでなく、僕がこれまで歩んできた汚物のような人生の全てが。
目を閉じると、伊藤さんの顔が脳裏に浮かんでくる。無表情で僕を見つめている。奥底のほうに怨念を秘めている。

そんなつもりじゃなかったんだ。罵倒するつもりなんか無かった。
あれは、ただ、そう、その場の勢いというやつで、どうしようもなかったんだ。
僕は、今でも変わらず伊藤さんのことを想っているし……それは、本当に、本当で……。

夢を見た。無音の夢だ。僕が伊藤さんを殴殺する夢だった。金づちか何かで、何度も何度も殴っていた。
だが伊藤さんはもう、胎児に殺されて死んでしまっている。僕が伊藤さんを殺すことはできないわけだ。

ふと思いつく。音のある夢とない夢は、現実と非現実によって区別されるのではないだろうか。
すなわち、音のある夢は現実であり、音のない夢は非現実、起こり得ない夢。
そう考えると、説明のつく部分は多い。しかし同時に、両親の自殺が本物であると認めることにもなってしまう。

両親……両親どころではない、世界自体がイヤホンの子どもたちによって壊されようとしている。
たとえ陳情書が受け入れられようとも、胎児はいずれ、その圧倒的能力でもって旧人類を絶滅させるだろう。
そして彼の言う、「つんぼの社会」が形成される。イヤホンの子どもたち……救われない栄華の種たちによって。

彼の母……つまり伊藤さんは、子どもがつんぼだから絞殺しようとした。
なぜか? 現実社会において、つんぼであるということは圧倒的なハンデとなるからだ。
イヤホンの子どもたちによる陳情団及び陳情書は、実はつんぼのための陳情なのかもしれない。

そう考えると、彼が陳情書にこだわったことに説明がつく。
そうしなくても彼は世界を支配できるのに、わざわざ陳情団の大行列を作ったわけ……
それは、未来を見ることができた彼の、せめて最低限の人権を認めさせようという、努力だったのだろう。

しかしいずれ憶測だ。妄想だ。机上の空論に過ぎない。もっと深い所に理由があるのかもしれない。

126 名前: ◆CtyM0huFrQmy :2009/08/23(日) 01:24:45.71 ID:UJr9dGdmP
目覚めると、枕もとに笑う男が陳情書の束を片手に立っていた。僕はぼんやりと彼を見上げる。

彼が昨晩、通話中の僕に血走った眼をして近づいてきたのは、伊藤さんという言葉に反応したからだろう。
彼らの関係は順調だったのだろうか、それとも破綻寸前だったのだろうか。
知る由はない。知るつもりもない。知りたくもない。

ただ、その破壊されかけの笑顔を眺めていると、無性に憤怒が湧き上がってくる。

( ^ω^)「な、なま、なま、な、なななな、なま、なまえ、なまへっ、なまへえっ!」

グラグラと痙攣し続ける手で僕にペンを差出す笑い男。
この男が伊藤さんとセックスをしたのだ。精子を注いだのだ。非処女にしたのだ。

僕はクズだ。思考回路の壊れたキチガイだ。論理性のないゴミ人間だ。
でも、だからどうしたというのだろう? どうせ旧人類は皆滅びるのだ。
見たところ笑い男はイヤホンをしていない、ということは彼は旧人類だ。ということは殺してもよいのだ。

僕はクズで、キチガイで、ゴミ人間だ。だから、笑い男を殺すのだ。

起き上がってペンを受け取り、僕は示された小さな欄に名前を書いた。
署名欄には、数え切れないほどの人名がびっしりと書き込まれている。僕が書き込んだのは、その先頭だった。

笑う男は陳情書を持ち、部屋を出て行こうとする。彼がドアノブを回すと、扉はいとも簡単に開いた。
僕は立ち上がると、パソコンのそばへ近寄った。

( ^ω^)「じゃ、じゃじゃじゃじゃじゃあ、じゃああああああっっっっ」

彼は物言いたげに、しかし別れの言葉だけを言うと、部屋から出て行こうとした。
その後頭部に、僕はパソコンのディスプレイをたたきつけた。

128 名前: ◆CtyM0huFrQmy :2009/08/23(日) 01:29:09.39 ID:UJr9dGdmP
引きちぎったコードが数本ぶら下がっているディスプレイの角を使って、僕は彼の頭を幾度となく殴打した。
笑う男は床に倒れ伏し、しばらく手足を死にかけのバッタのように動かして抵抗していた。
僕は彼を容赦なく殴りつけた。画面が割れ、破片が飛び散る。輪郭が歪んでひしゃげていく。

彼が死んだと認識してからも、僕は笑う男を殴り続けた。なんとなく、気分だった。
頭から細い血の筋を垂らす男は、もう笑っていない。
バリバリになった表情筋は垂れ下り、醜悪な表情を作り出している。

数十分間彼を殴り続けたあと、僕は部屋に戻った。
そして、助走をつけてディスプレイを窓外の薄暗い景色に向かって投げ飛ばした。
ディスプレイは窓ガラスを突き破り、窓外に飛び出して消えていった。

その瞬間だった。

ガ   ゴ  ガ   ガ   ガリガリガリガリガリガ   ガリリリ
 タ タ ト ト リ リ リ リ            ガ   リ   ガ
  ガ   ゴ   ガ   ガ             ガガガガガガガ

音をたてて景色が動き出した。まるで、錆びついた歯車を無理やりに動かしているような音。
窓の外で昼と夜が忙しなく移り変わっていき、人間たちが行き通う。早回しのビデオを見ているようだ。
やがて景色が止まったとき、そこには朝と瓦礫の風景があった。

すでにここは戦場になっていたらしい。爆弾も落ちていたらしい。
もしかしたら、室内の時間が止まったのは、僕らを兵器から守るためだったのかもしれない。
僕は笑う男の取り落とした陳情書を拾うと、彼の死体を踏みつけて外に出て、階段を下りた。久々の外出だ。

家の中に両親は、どこを探してもいなかった。避難したのかもしれないが、
やはりイメージ通り、自殺したと考えるのが適当だろう。
途端に、僕の正気が舞い戻ってくる。僕はなんてことをしてしまったのだろう。
ついにこの手で、人を殺してしまったぞ。僕は靴を履き、悲鳴をあげながら、外に向かうドアを開いた。

130 名前: ◆CtyM0huFrQmy :2009/08/23(日) 01:33:10.15 ID:UJr9dGdmP
壊れてしまった街並みを、僕は歩いている。自宅以外、全て破壊されてしまったのだ。
焦げ臭く、腐ったにおいが、周囲から湧き上がってくる。
音はしない。この近くには、僕一人しかいないのだ。

『そうだ、全部、奴らが悪いんだ』

どこからか声が聞こえてくる。甲高い、鼓膜を引き裂くような幼児の嘆き。
空の彼方から、或いは地の底から、もしかしたら、空間そのものから。

どろどろに溶けた、真っ黒な人の肉が、素足の下で潰れる。
粘着質の液体が踵にこびりつく。僕は瓦礫に足の裏をこすりつける。

『父親の性器が射精した。母親の性器が俺らを放りだした。ただそれだけだ。
 ただそれだけのことで、俺らは奴らの所有物だ。目を覚ませ、奴らのどこに尊厳がある?
 愛情の証明やらにかこつけて、欲望を発散しただけに過ぎない。その結果がこれだ。
 無能な奴ら、親の名を冠しただけの顔面性器。そして奴らは、いつか俺を殺すんだ』

(´ ω `)「&オ゙"ウ=ア、#オ=オ%ア"オ$オ、!オ'オ=ア%ア!イ……」

呼吸困難で喘ぐような声が、口から勝手に飛び出す。

『思ってるんだよ。せいせいしたろう』

腐ったにおいが鼻から取れない。黒煙の上る破片の海、太陽ばかりがギラギラと輝いている。

やがて、僕はイヤホンの子どもたちを発見した。

134 名前: ◆CtyM0huFrQmy :2009/08/23(日) 01:36:55.98 ID:UJr9dGdmP
彼らは、僕の眼前に、縦横の列を成して並んでいた。
攻撃を受けた彼らの皮膚は爛れ、一様に黒焦げの顔を晒している。

僕は彼らの人生について考えた。彼らもまた、操られているのだろうか。
操られて、自我を持たずにここまでやって来たのだろうか。
彼らは何を思うだろう。イヤホンを垂らした耳で、何を聞いているのだろう。

僕の姿を見つけた彼らは、口々に何かを話している。

(■■)「!オ!イ'イ)オ(オ、(オ"エ゙=オ#イ(ァ#ア'ア$ア゙」

(■■)「&オ=オ$オ!ウ$ア゙、&オ゙"ウ)ア%オ)イ!イ$ア゙!ア$ア゙」

(■■)「(オ"エ゙=オ#イ(ァ#ア'ア、&ア゙=オ#ア゙!イ! &ア゙=オ#ア゙!イ! &ア゙=オ#ア゙!ア!イ!」

不思議なことに、僕は彼らの喋る言語、狂犬の断末魔を聞くことができた。
それも、イヤホンを通してではない。この耳で、聴覚ではっきりと、だ。

僕は、この瞬間自由になった。もうイヤホンを垂らしている必要はない。
僕はつんぼの言語……新人類の言語を聞き届けることができるのだ。
この、忌まわしいツールを取り外すことができるのだ。

耳に手をやってイヤホンを外そうとし……僕は躊躇った。
思えば、これは現実と非現実を隔てる最後のツールなのだ。これを取り外せばもう、僕は日常に帰れなくなる。
旧人類としての感情意識存在その他諸々を捨てて、新人類となるべきだろうか。

なるべきなのだ。目の前の子どもたちが、そしてどこかにいる彼がそれを望んでいる。
引き籠りでどうしようもない、しかも最低なクズ人間の僕に、恩を売るチャンスが舞い込んできたのだ。

万感の思いを胸に込めて、僕はそれまでしっかりと耳に食い込んでいたイヤホンを、一気に抜きとった。

138 名前: ◆CtyM0huFrQmy :2009/08/23(日) 01:45:26.76 ID:UJr9dGdmP
懐かしい音が消えて、新しい音がやってきた。
僕はつんぼじゃない……いや、正確には、旧人類の言うつんぼではない。

(■■)「(オ"エ゙=オ#イ(ァ#ア'ア、$オ゙!ウ#オ゙」

(■■)「&オ゙"ウ$ア$イ!オ、'イ$イ&イ゙!イ$エ"ウ$ア゙#ア!イ」

(■■)「#エ=オ$オ!ウ%イ$ア$ゥ$エ、!ア)ウ!イ$エ"ウ$ア゙#ア!イ」

僕は彼らの言葉に応じて、瓦礫が積み重なった小高い場所へ上った。
どこかで、あの赤ん坊が笑っている。僕の存在を、或いは「イヤホンの子供たち」への参入を祝福している。
彼は導師だ。気高き導師だ。不細工で下らないゴミのような女から産まれた、しかし崇高なる導師なのだ。

上から見下ろすと、イヤホンの子どもたちはどこまでも続く黒い絨毯のように見えた。
多分、此処を歩いて行った先に、我らの世界があるのだろう。

      「#ア!ア、!ア)ウ"オ!ウ、#イ(ゥ$オ&エ! &オ゙"ウ)ア%オ"エ=オ)イ!オ、$ウ"ア'ウ$ア'エ%イ!」」

僕らは快哉を叫ぶ。まずは陳情書のコピーだ。そして、首都に向かって歩んでいく。その先にある社会に向けて。

(´・ω・`)「&オ゙"ウ)ア%オ#エ"ア!イ!オ、$ウ"ウ)ウ$ア'エ%イ!」

空の上から、ゲンシバクダンが落ちてきた。

・・・

・・



140 名前: ◆CtyM0huFrQmy :2009/08/23(日) 01:51:01.38 ID:UJr9dGdmP
#エ=オ#オ!ウ$オ=ア&エ!イ=ア%ア)イ

#イ゙(ウ!ウ=ア)エ!イ#イ゙(ゥ!ウ%ア)イ

'ウ$イ&ア$イ"ア)ア%ア)イ

!イ(ア&オ=オ%オ"オ$オ゙'オ=ア"イ'イ!オ'イ$エ!イ)ウ

"エ=オ)イ!オ'オ$オ'エ$エ"イ'イ!オ'イ$エ!イ)ウ

#オ)エ=ア$オ゙%オ#エ"ア!イ%イ'オ

#オ)エ=ア$オ゙%オ#イ゙$ア゙!イ%イ'オ

=ア#ウ)エ)ウ%ア

"イ'イ=ア$ウ%エ%イ'イ)ア)エ$エ!イ)ウ

#オ)エ!オ)イ"ア!イ#イ$エ%ア!オ"イ'イ=ア

!イ(ア&オ=オ%オ"オ$オ゙'オ!オ"オ)オ#ア%ア"エ)エ&ア゙%ア)ア%ア!イ






(■■)('、`*川イヤホンの子どもたちのようです( ^ω^)(´・ω・`)(   ) 終わり

142 名前: ◆CtyM0huFrQmy :2009/08/23(日) 01:53:28.71 ID:UJr9dGdmP
以上です お疲れ様でした。気付けばもう、二時だね。
こんな真夜中にこんなに沢山地の文読みたくなかったよね。

途中で出てきた「日本語でおk」な部分は、割と簡単に解析できるので、
暇な人はやってみるといいと思う。まあしなくても大丈夫だけど。

それじゃあごきげんよう。良い祭期間をお過ごしください。


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